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龐統・・・薄命の才人 [三国志]

荊州襄陽郡の出身。荊州の名士・龐徳公の従子である。若い頃はあまり身なりが冴えなかったことから
評判を得なかったが、人物鑑定で有名な司馬徽にその才能を認められたことでようやく名が高まった。
後に郡に仕えて功曹となり、孫権配下の周瑜が南郡太守を領した後に周瑜が病死すると、その遺骸を
送り届ける役目を担っている。
その後、荊州を領有した劉備の元に転じ、耒陽の県令という職を任ぜられるものの、仕事を滞らせた
ために罷免される。これを聞いた魯粛は劉備への手紙の中で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、
諸葛亮も取り成したので再び劉備に召し抱えられ、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命される。
劉備陣営の次の方策として西の巴蜀を獲ることが考えられていたが、劉備は蜀の主が同族の劉璋で
あることを理由にこれを渋っていた。龐統はこれを諫めて蜀を獲ることを劉備に決心させた。
入蜀に際しては龐統が劉備に同行し、諸葛亮は荊州の留守を守ることになった。
劉備軍は漢中の張魯と対峙する振りをして駐屯し、成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していたが、
東で曹操と孫権が戦い、劉備に対して援軍を求めてきたことを口実に軍団を移動させることを考えた。
この時、龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を
奪い成都を目指す中計・いったん白帝城まで退く下計の三計を提示し、その結果劉備は中計を
採用した。
そこで劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋の武将である楊懐と高沛を呼びつけて騙し討ちし、
白水関を占領した(入蜀合戦)。
劉備軍は成都攻略の前に劉循・張任が守る雒(らく、雒は各隹)を包囲したが、この包囲戦の最中、
龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。享年36[。劉備は
龐統の死を大いに悲しみ、関内侯を追封し、靖侯と諡号を贈った。
龐統は物事の本質を見極めて、臨機応変で現実的な手段を講じることに長けており、人物評価、謀略に異能を発揮した。早逝したためにそれほど事跡が多くはないものの、残された逸話からは龐統の知性と人格が窺える。『龐統伝』には次のような逸話がある。蜀への侵攻の際、勝利に浮かれる劉備に対し「他人の国を侵略してそれを喜んでおられるとは仁者の戦ではありません」と元々蜀を取ることを勧めたのは龐統であるにもかかわらず、痛烈に劉備を批判した。劉備は怒って龐統に退席を命じたが、すぐに自分の非に気がつき戻るようにいった。龐統は何ごともなかったかのように席に戻ったが、劉備の方がかえって恐縮してしまい「先程の議論では私と君のどちらが間違っていたのか」と聞いた。それに「君臣共に間違っておりました」と答えたので、笑い話になったという。
また龐統は人物評価を好んでおこなったが、その場合はいつもその人物を過大に評価をしていた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎくらいの評価をして名誉欲を満たしてやらなければ、善事をおこなう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。
『三国志』において龐統の伝は法正の伝と同時に評されている。陳寿の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・楚の地域の人士から才能に秀でた人物と謳われていた」「魏臣にあてはめると荀彧の兄弟」とあり、法正と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵すると評価されている。
陳寿の龐統への尊崇の念とともに、もっと長く生きて蜀で活躍していれば・・・という惜しむ気持ちが
伝わってくる。



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