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司馬朗・・・弟以上の人格者 [三国志]

彼は厳格な父・司馬防に厳しく育てられたという。彼が9歳になった時のことである。
父の友人が父の字を呼んだので、司馬朗はその人に対して言った。「他家の親を軽率に
呼ぶ人はご自身の親も軽視しているのです」、と。その父の友人はあまりの恥で顔を
上げられなかったという。

彼が12歳になった時、経典の暗記で見事に及第して、童子郎となる。しかし、ある人が
司馬朗に対して、「君は、12歳の割には随分と大きい体をしている。本当は12歳では
ないのだろう?」と問い詰めた。しかし、彼は「わが家は先祖代々、体格の大柄の家系ですし、
このわたしは若輩者ですが、生来出世心を持っておりません」と明確に答えたという。

初平元年(190年)洛陽が董卓に占拠された時のことである。治書御史を勤めた父は、
長子に対して家族を引き連れて故郷に戻るように命じた。ところがある者が董卓に向かって
「司馬朗は郷里に戻ろうとしています」と讒訴した。そのために司馬朗は逮捕され、
董卓の前に曳き出された。董卓は彼に対して「君は先年に亡くなった私の息子と同年だ。
何故、私を見放すのか?」と問うた。司馬朗は答えた。「今の世の中は混乱に極めております。
私も郷里もこのままでは退廃する恐れがあり、いずれ民は飢えで亡くなるでしょう」、と。
董卓も堂々とした態度を示した司馬朗を評価したという。

しかし、司馬朗は董卓の身の破滅を直感したので、董卓の腹心らに賄賂を渡して、それが
巧くいったので、彼は逸早く一族を引き連れて郷里に逃げたという。

数え22歳の時に、曹操が召し寄せて司空掾属とし、成皋の県令などの地方官吏を歴任した
(記述はこのとおりであるが、曹操が司空に任命されたのは196年であり、没年から逆算すると
26歳になるので、年齢が合わない。記述のミスか、年齢をごまかしていたか、どちらかな
のであろう)。しかし、病のために職を辞した。後に、病が快方して堂陽の県長に復帰した。
この時、司馬朗は領民に寛大な政策を執る善政を敷き、領民から慕われたという。
このような功績を曹操に認められ、元城の県令を経て、後に中央に戻されて丞相主簿に
任じられた。

その後は兗州刺史となり、内政手腕を存分に発揮して、領民に善政を敷いて多くの人々から
慕われたという。

ある時に崔琰は、「君の才は弟の司馬懿に及ぶところではない」と司馬朗に語ったが、
司馬朗は崔琰の言葉に全く気を悪くする様子もなく、笑ってそれに同意して、弟の
司馬懿の才能を高く評価していたという。

217年に夏侯惇に従軍して、臧覇らと共に孫権の征伐に従軍する。しかし、そこで疫病に
よる風邪が蔓延し、彼を含めて多くの兵士が風邪をこじらせた。そこで司馬朗は兵士達に
薬を全て分け与え、自分は飲まなかったために病死した。齢47。彼の訃報を聞いた兗州の
多くの人々は涙を流して、彼を偲んだという。

後に、司馬懿は亡き長兄のことを顧みて、「私は人格者としては、亡き兄に及ばなかった」
と懐古したという。

演義で彼のことに触れられないのはわかるような気がする。彼は貶められるよう逸話無く、
蜀との絡みが無いので、敢えて出番を設けなかったのではないか。
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