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姜維は諸葛亮の後継者ではない。 [三国志]

三国志演義では諸葛亮に「自分の陣立てと似ている」「兵法のすべてを伝えたい」と言わせた姜維。
兵法書も授けられている。
だが正史ではそのような記述は無い。有るのは姜維が蜀に帰順後「「姜維は任務に励み国家に忠実な男。
天子に謁見する栄誉を与えたい」「馬良よりも優秀な涼州最高の人物」という評価が有るので、
この辺を昇華させたのだろうか。
さらに言えば諸葛亮死後の北伐の中心は姜維である。その歴史的事実に「姜維は諸葛亮の後継として
指名だれた」と物語性を加えたかったのだろう。
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書いてある内容が怪しい三国志の評論家 [三国志]

一時のブームと比べると下火感はあるものの三国志に関する評論の本は多い。
だが、読むと「この人本当に三国志について詳しいのか?」と思えるものが圧倒的に多い。
その中でありがちなのは
諸葛亮過剰絶賛
曹操は実は優秀でいい人
正史三国志と小説三国志演義の混同
特に多いのが正史三国志と小説三国志演義の混同
書いている内容が怪しいのも酷いが、もっとひどいは他人の書いた評論の丸写し。
それは著作権侵害です・・・。
著者の肩書や出典で専門が中国や東洋史と外れたジャンルだったり、色々な分野の手を出している
評論家の三国志評論は怪しい内容の宝庫です(笑)。
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三国志と品性 [三国志]

三国志の時代は知恵があることはもちろん尊重されていたが品性というものはそれよりも上位に
尊重されていたようだ。

諸葛亮の兄の子諸葛恪は智謀によって評価されていた。その弟で後に諸葛亮の養子になった諸葛喬は
「才能では諸葛恪に劣るが品性は上と評された」と言われている。

品性の優劣というものをどう評価したかという疑問があるが、人の評価として「品性」に言及することは
その重要性の高さを表すものだと思っている。
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諸葛亮の北伐は蜀財政にどれだけ負担? [三国志]

三国最小の国蜀。その蜀で5回北伐を行った諸葛亮。この軍事行動が蜀の国家財政に与えた負担が
大きかったであろうことは推測できる。実際どれだけ負担がかかったか?

徴兵(軍事行動)による生産力ダウン
兵糧の消耗分
軍服
戦死者の恩給

戦争による死者の被害もさることながら、軍事行動中に生産活動を行う労働力が損なわれる
損失は大だろう。
諸葛亮の北伐はそこまで長期にならない。兵糧が尽きると撤退している。行動を起こす前段階で
国の余力を計算しながら「北伐を行う計画期間」を諸葛亮は定めていたのかもしれない。
彼は戦争を始める前からいつ終えるかを考えていたのではないだろうか。

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姜維の恩赦による兵調達とロシア [三国志]

蜀の姜維は軍の最高指導者になると連年のように出兵した。
そして功績を得られずに撤退を繰り返した。
小国の蜀にとって軍人行動の失敗に伴う兵力の損害を埋めることは容易ではない。
蜀は末期恩赦を用いて囚人を兵に組み入れたようだ。
後年史家は諸葛亮の「罪人を許して法をゆるがせにしなかった」諸葛亮の恩赦廃止を褒め、
この姜維(恩赦は費イが復活させたようだが)の行為を非難している。
昨今のロシアも囚人を軍に組み入れていると聞く。
国が行き詰まると取る行動は今も昔も変わらないのかもしれない。
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諸葛亮の次に有能な蜀の政治家は誰か? [三国志]

私は蔣琬を推す。
龐統や法正といった謀臣は蜀建国時にはこの世にいなかった。
彼の対抗馬というと費イが挙げられるが彼は暗殺されてしまうという不遇な最期を
遂げて、蜀の傾国の原因となった。
蔣琬を誰よりも評価したのは諸葛亮だ。生前より評価していて自分に万一のことが有った場合は
蔣琬をと遺言している。
彼の統治時期に大きな失敗は無く、目立った軍事行動を起こさなかったので国の財政も
安定していたと思える。
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泣いて馬謖を斬らなかったら・・・。 [三国志]

諸葛亮がもし馬謖を斬らなかったら・・・と仮定を考察してみた。
結論は蜀の大勢に影響は無いが後世の諸葛亮の評価を下げることになったと思う。

実は李厳なる重臣が兵糧補給を怠ったときに重罪であったにもかかわらず官位剥奪、追放の処分を
下している。馬謖も斬られければ同様の処罰だっただろう。
つまり、馬謖が活躍もしない代わりに失敗もしないという人生を送っていたと推測する。
そして馬謖を斬らないまでも重い罰、李厳と同程度の刑罰を与えることで蜀の臣民をそれなりに
納得していたことだろう。

一方で後世の歴史家は諸葛亮の馬謖への処分を甘いものと評価していた可能性が有ると考える。
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外れが多い他作家の三国志 [三国志]

三国志演義をアレンジした「三国志もの」を書いている人は多い。
北方氏、陳舜臣氏、吉川英治氏。
これらの著書はなかなか面白いと思った。だが・・・。

変にオリジナルキャラクターを出したり、個人の想いれで登場人物を変な色に脚色して
イマイチだと思える作品が多いと思う。

と言うより三国志の名前を利用して安易に当てようとしている作品の多さに個人的には
閉口している。
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王連・・・蜀の財政を助けた有能な政治家 [三国志]

中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は文儀。荊州南陽郡の出身。蜀書に伝がある。
子は王山。
劉璋の時代に益州に移り、梓潼県令に任命された。建安18年(213年)、劉備軍は葭萌から成都に
侵攻を開始し、南進して梓潼に到ったが、王連は城門を閉ざして降伏しなかった。劉備はこれを
義と感じて強いて攻めようとはしなかった。
益州平定後に劉備から、什邡県令、のち広都県令に任命され、それぞれの地で治績をあげた。
その後、司塩校尉に昇進した。彼の下で行われた塩と鉄の専売により、国庫の収入は大幅に
増加した。また、良才を持った者を典曹都尉として取り立てた。呂乂・杜祺・劉幹らが後に
高位に上ったのは、王連が抜擢したことによるものだった。蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も、
引き続き塩府の仕事を担当した。建興元年(223年)、屯騎校尉・丞相長史となり、平陽亭侯に
封ぜられた。
益州南方の四郡が呉と通じて大規模な反乱を起こすと、諸葛亮は自ら軍を率いて鎮圧しようとした。王連は「南方は不毛の荒れ地で、風土病が蔓延しています。一国の期待を担う者が危険を犯すべきではありません」と諫言した。諸葛亮は緒将の才略が自分に及ばないことを心配し、あくまで出陣を主張した。これに対し、王連は懇切を尽くして持論を繰り返したため、彼の存命中は諸葛亮も成都に留まっていた。しかし、王連はまもなく亡くなったため、建興3年(225年)諸葛亮は南征を決行した。
子の王山が跡を継ぎ、後に江陽太守となった。
陳寿は、その節義は固く移ろわなかったと評している。また季漢輔臣賛では、その行いは世の規範であり、軍資を増やして職務を全うしたと称えている。

彼は荊州出身→益州に移り登用されたコースの文官。専売制により国庫を増やしたことを史書で特筆
されているところに彼の有能さがうかがえ知れる。
一方で諸葛亮の身をあんじる優しい一面も持っていた立派な人物だ。
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劉封を何故劉備は養子にしたのだろうか? [三国志]

劉封は中国後漢末期の武将。字は不明。父は寇氏、母は不明。劉備の養子。荊州長沙郡羅県の人。
元々は寇氏の子で、長沙劉氏の甥であった。劉備に実子劉禅が生まれる207年以前、当時荊州に滞在し、
未だ世継ぎのなかった劉備から養子に迎えられた。

212年、劉備が益州攻略戦に乗り出した。劉封は当時20余歳だったが武芸・気力ともに人より優れていたことから、
諸葛亮・張飛らと共にこの戦いに参加し、随所で武功を挙げた。益州平定後、劉封は副軍中郎将に任じられた。

219年、孟達は劉備に命じられ、房陵を攻略した。孟達は続いて上庸に進軍したが、孟達1人では心許ないと思った劉備は、劉封を漢中から派遣して上庸で合流させ、孟達の軍を統率させた。劉封と孟達は申耽を降伏させ、劉封は副軍将軍に
昇進した。

同年に樊城で曹仁を包囲した関羽から何度も援軍を要請されたが、占領したばかりでまだ動揺が収まっていないという
理由で、これを拒否した。その結果、曹仁に援軍を要請された曹操が派遣した徐晃と趙儼と、孫権が派遣した呂蒙の
挟撃を受けて関羽は大敗し、後に潘璋配下の馬忠に捕らわれて処刑された。劉封・孟達はこの事で劉備の深い恨みを
買った。また、劉封は孟達とも対立しており、後に彼の軍楽隊を接収した。

220年7月、劉封に対する憤りと関羽を敗死させた罪への恐れから、孟達は魏に出奔。魏は孟達を建武将軍・新城太守に
任じ、夏侯尚・徐晃と共に劉封を攻めさせた。その際、孟達は劉封の立場の危うさを指摘し、魏に帰順することを促す
手紙を送ったが、劉封は従わなかった。しかし、申耽の弟の申儀などが反乱を起こし、劉封を襲ったため上庸は陥落し、
成都への敗走を余儀なくされた。

劉備は、劉封が孟達を魏に奔らせたこと、関羽を救わなかったことを責めた。諸葛亮はこれに乗じて、劉封の剛勇さは
次代の劉禅では制御し難くなるという理由から、劉封を除くように進言した。かくして劉封は死を賜る事になった。
自決の際、劉封は「孟達の言葉に従わなかったことが残念だ」と嘆いた。これを聞いた劉備は彼のために涙を流した。

演義で彼が養子になるのは劉禅が生まれた後で周囲は養子縁組を反対している。
史実の方が養子にしたことの不自然さはないものの、養子にするほどほれ込んだ理由は不明である。

史実の彼の最期の言葉はいかにも往生際が悪い。演義の方が孟達の言葉に怒るあたりまだ同情の余地が有る。
彼を養子にした理由は史実の資料だけではな不明である。
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実際に曹操を追い詰めたら関羽は見逃しただろうか? [三国志]

三国志の名場面の一つ。
赤壁の戦いで敗れた曹操を関羽が見逃す場面。
恩義に弱く、弱者に情けをかけずにはいられない関羽。
だがこれは演義の脚色。史実でこのような話は無い。

実際にこのような機会が有ったら関羽はどうしただろうか?
劉備への忠義を第一と考え曹操を討っただろうか?

後世の関羽贔屓の作った心憎い演出は物語に深みを与えたことは確かだ。
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三国志・・・変な名前の不遇の死を迎えた武将たち [三国志]

文醜、于禁。
現代のキラキラネームで犯罪を犯してしまう人に通ずるものを感じる。
もっとも、顔良のように名前がイケメンでも不遇なケースも有るが(笑)。
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向寵・・・出師の表に登場するが演義では出番無し [三国志]

中国後漢末期から三国時代の武将。荊州襄陽郡宜城県の人。叔父は向朗、弟は向充。
叔父の向朗と共に劉備に仕え、牙門将軍 (官職)に任じられた。221年、夷陵の戦いで劉備が大敗した際、向寵の守る陣は全く破られることがなかったという。その後も劉禅のもとで都亭侯、中部督と昇進を続け、近衛兵の指揮を任された。丞相の諸葛亮からもその才能を認められて、中領軍に任じられている。

彼は出師の表の中で「将軍向寵は、性格・行動が善良・公平であって、軍事に通暁しております。
以前試みに任用されまして、先帝(劉備)は彼を有能だとおほめになりました。だからこそ多数の
意見に従って、向寵を司令官に推挙したのです。私の考えでは、軍事の事柄はすべて彼に諮問
なさったならば、必ず陣営内をむつまじくさせて、優劣それぞれしかるべき地位を得ることに
なりましょう」と述べている。

北伐という一大軍事行動。優秀な軍人の大半を投入する必要が有る。自分の不在時にそれなりの
軍事責任者を残しておく必要が有る。
彼はそのような状況下ではおあつらえ向きの人物だったのではないだろうか・

ちなみに彼は演義では出番が無い。夷陵の戦いで彼の活躍を描くのは物語としては冗長という
作者の配慮だろうか。


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関興・・・関羽の息子は文の人? [三国志]

関 興(かん こう、204年頃~230年以前)は、中国三国時代の官僚・軍人。蜀漢に仕えた。
字は安国。父は関羽。
正史では、関羽伝にて僅かに触れられている。そこでは、関羽が死ぬとその跡を継いだこと、
そして諸葛亮からも将来を嘱望された人物であり、馬良の死(222年)後に20歳で侍中・
中監軍に任じられる異例の大抜擢を受けた(223年?)が、数年後に没した事が
記されているのみである。
「あの」関羽の息子。諸葛亮にも将来を嘱望された器。早逝は実に残念。
こうした想いは三国志演義が書かれた頃にも有ったようで、彼は演義ではなかなかの武人として
活躍の場が与えられている。
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かなり違う [三国志]

ビジネス関係の話題で三国志を例にするケースが見られる。
「この人三国志読んでないのでは?」と思うことが多い。
演義と正史を混同していたり、事実と異なることを書かれているのだ。
一方で三国志関連の記事で仕事を引き合いに出すと、これはまあまあ納得出来る。
「生兵法は怪我のものと」。三国志を読んだことが無い人は無理やり三国志を例に出すことは
避けた方が無難だと思う。
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樊建・・・人柄の優れた蜀末期の人物 [三国志]

中国三国時代から西晋の政治家。蜀漢と西晋に仕えた。字は長元、荊州義陽郡義陽県の人
(「諸葛亮伝」が引く『晋百官表』)。『三国志』蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に
記録がある。

諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令となった。251年には校尉の地位であったが、このとき
呉への使者として赴いた。孫権は重病で樊建と直接対面することができなかったため、諸葛恪に
対し樊建の人物を、かつて使者として呉を訪れた宗預と比較する形で尋ねた。諸葛恪は
「宗預に才能・見識では及ばないが、性質では優っている」と評した。

後に侍中・尚書令となった。261年に諸葛瞻と董厥が平尚書事になると、樊建と三名で国政を
預かることとなった。黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、樊建らはお互いに庇い
合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。ただし、樊建だけは黄皓と私的に親しく
することはなかったという。

263年、魏が蜀に侵攻し、劉禅は降伏した。翌年春、劉禅が一家揃って洛陽へ移送されることに
なると、樊建は董厥と共に従った。洛陽に到着すると、旧蜀の群臣たちとともに列侯に封じ
られた(「後主伝」)。

その後、董厥と共に相国参軍となり、秋には董厥と共に散騎常侍を兼任した上で、蜀の民心鎮撫に努めたという。

西晋の給事中であったとき、司馬炎(武帝)に諸葛亮の治世について質問されると、これを賞賛して述べた。司馬炎もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都において鍾会の讒言で冤罪で誅殺されていた鄧艾の罪の赦免を、平伏して嘆願した。司馬炎は笑ってこれを容認したという(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

奸臣黄皓に阿ることなく、権力者司馬炎に直言する彼のごとき人物は立派だと思う。
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閻宇・・・亡国の臣 [三国志]

中国三国時代の蜀漢の武将。字は文平。荊州南郡の人。
馬忠・張表の後任として蜀南部の統治を行ない、長年に亘って業績をあげ、職務に熱心であったとされるが、馬忠の風格・功績には及ばなかったとある。その後、右大将軍に遷った。延熙20年(257年)頃、呉の朱績が魏を牽制するよう蜀に求めてきた。このため、閻宇が右大将軍の地位のまま巴東に都督として派遣され、5千の兵で白帝城を守備し、太守の羅憲を副将とした。

その一方で閻宇は黄皓と結託し、北伐中の姜維と自分を交代させようと画策した。黄皓以外にも諸葛瞻・董厥らは、勝機無き北伐の連続で国内を疲弊させたということを理由に、姜維を召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うよう劉禅に上奏すべきと考えていた。蜀の長老の話に拠れば、諸葛瞻は実際に姜維と閻宇を交代させるよう上奏したとされる。


景耀6年(263年)、魏が侵攻してくると閻宇は召還を受け、羅憲に2千の軍勢を委ねた上で西へ引き返した。その後の消息は不明である。

彼の事績に関する記録は少ない。少ないが故に、奸臣黄皓と結託したという事実から、能力無く
性質も悪質の人間だったことが想像される。
亡国を前にどこかに逃げてそのままこの世を去ったのだろうか。
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費詩・・・正論を貫いた硬骨の人 [三国志]

中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は公挙。益州犍為郡南安県の人。
劉璋に仕えて綿竹県令を務めていたが、劉備が攻めて来ると率先して降伏し、その家臣となった。
劉備が益州を平定すると、督軍従事に任じられる。その後、牂牁太守となり、さらに中央
へ戻って益州前部司馬に任命された。
劉備が漢中王となると、費詩は関羽の下に派遣されて前将軍への任命を告げた。ところが、
関羽は黄忠が後将軍に任命されたと聞き、「拙者があのような老いぼれと同格か」と怒った。
費詩が「そもそも王者が任用するものは一人ではありません。かつて、高祖は古参の蕭何・
曹参を差し置いて新参の韓信を最高位に就けましたが、彼らがそれを恨んだと聞いた事が
ありません。この度、黄忠殿は一時の功績によって出世しましたが、漢王(劉備)の
君侯(関羽)に対する心中の評価が、どうして黄忠殿と同じでありましょうか。
君侯と漢王は一心同体と言うべき間柄ですのに、位の上下などに拘っているのはいかがなものかと存じます」と説いたため、関羽は大きく感じ入って誤りを悟り将軍位を受けた。

建安25年(220年)、劉備が皇帝に擁立される段になると、費詩は上疏し「殿下は曹操父子が
主上(献帝)を脅迫して位を簒奪したため、万里の僻地に身を寄せ士人民衆を糾合し、賊を
討伐しようとしております。今、大敵に勝利を得ないまま、まず自ら即位されるとなると、
おそらくは人々の心に疑惑が生じましょう。昔、高祖は先に秦を破った者が王になるとの盟約を
項羽と交わし、咸陽を落として子嬰を捕らえながら、なお王位を譲ろうとしたのです。ましてや、
殿下は益州からお出にもならないうちに即位しようとなさっております。愚かなる臣(わたくし)は、殿下のために全く賛成できません」と反対したため、劉備の不興を買って永昌従事に左遷された。しかし、費詩の才幹は蜀漢において貴重であったようで、建興3年(225年)の諸葛亮の南征において随従を認められた。

その後、諸葛亮は、魏に寝返った孟達を内応させようと手紙を送ろうとした。費詩は、孟達は小人物であり、手紙を出す価値などないと諌めた。諸葛亮はかまわず手紙を送り、何度か手紙をやりとりすると孟達は叛意を明らかにしたが、結局魏の討伐軍に敗れ殺害された。諸葛亮は孟達の誠意を疑ったため援軍を出さなかった。

諸葛亮の死後、蔣琬が執政を開始した時期にも費詩は存命であり、諫義大夫に任命されている。

私は費詩を勇気ある硬骨の人だと思う。劉備の逆鱗に触れて左遷された後にも自分の判断で正しいと
思ったことを最高権力者の諸葛亮に堂々と直言する。諸葛亮が彼を処分しなかったのは
恐らくその意見の正当性を認めたからだろう。
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楊顒・・・諸葛亮に諫言した人物 [三国志]

楊 顒(よう ぎょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は子昭。
荊州襄陽郡の人。宗族には楊儀がいる。
諸葛亮の北伐時、その幕僚として従軍し、諸葛亮に高く評価された。『三国志』に注釈として
付けられた習鑿歯の『襄陽記』に事跡が記録されている。

楊顒は漢水の傍、蔡洲の西にある洄湖の南岸に居住していた。
劉備が荊州南部を征圧するとこれに仕え、入蜀に付き従って巴郡太守に任命された。
諸葛亮が丞相となるとその主簿となった。

この際、諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、その働きすぎを治国のあるべき姿である
礼制を一家のあり方に例え、前漢の宰相である丙吉・陳平の故事を引いて諌めた。
諸葛亮は彼の忠告に陳謝した。

後に東曹属となって官吏の推挙を担当した。楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み
三日間にわたって涙を流した。諸葛亮は留府長史の張裔・蔣琬に手紙を送った際に、
同時期に亡くなった西曹令史の頼広とともに、その死は朝廷の重大な損失であると
書き記している。

その死を悼んで3日涙を流した諸葛亮。彼の人物の大きさがうかがえる。
このような人物に先立たれたことは諸葛亮にとって痛手であっただろう。
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十人十色 [三国志]

諸葛亮にその生存中自身の後継として指名された蔣琬。
楊戯が蔣琬との議論の途中で返事に詰まってしまう事があった。その時、楊戯を快く思わない者が失脚させようと「楊戯は蔣琬殿と議論をしていると言うのに返事をせぬとは無礼ではありませぬか」と指摘した。すると蔣琬は「人は顔の造りが違うように考え方も人によって違う。彼は自分の考えを曲げてまで私の意見に合わせる事はしないが、かと言って否定すれば公に私を批判する事になってしまうからあえて返事をしなかったのだ。これは彼の長所である」と弁護した(この出来事が『十人十色』の由来とされる)。

この話をつい最近になって知った。
蔣琬はいわゆる切れ者ではない。だが、彼には落ち着いた大人の態度を感じる。
多くの人を認める際に「十人十色」はなかなか重宝する言葉だ。
この言葉が蔣琬と知った時意外だと思ったが、よくよく考えると納得できる。
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王連・・・蜀の優れた財政手腕の持ち主 [三国志]

中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は文儀。荊州南陽郡の出身。蜀書に伝がある。子は王山。

私は彼が益州出身だと思っていたが、さにあらず。彼は荊州出身者である。
劉璋の時代に益州に移り、梓潼県令に任命された。建安18年(213年)、劉備軍は葭萌から成都に侵攻を開始し、南進して梓潼に到ったが、王連は城門を閉ざして降伏しなかった。劉備はこれを義と感じて強いて攻めようとはしなかった。

益州平定後に劉備から、什邡県令、のち広都県令に任命され、それぞれの地で治績をあげた。その後、司塩校尉に昇進した。彼の下で行われた塩と鉄の専売により、国庫の収入は大幅に増加した。また、良才を持った者を典曹都尉として取り立てた。呂乂・杜祺・劉幹らが後に高位に上ったのは、王連が抜擢したことによるものだった。蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も、引き続き塩府の仕事を担当した。建興元年(223年)、屯騎校尉・丞相長史となり、平陽亭侯に封ぜられた。

益州南方の四郡が呉と通じて大規模な反乱を起こすと、諸葛亮は自ら軍を率いて鎮圧しようとした。王連は「南方は不毛の荒れ地で、風土病が蔓延しています。一国の期待を担う者が危険を犯すべきではありません」と諫言した。諸葛亮は緒将の才略が自分に及ばないことを心配し、あくまで出陣を主張した。これに対し、王連は懇切を尽くして持論を繰り返したため、彼の存命中は諸葛亮も成都に留まっていた。しかし、王連はまもなく亡くなったため、建興3年(225年)諸葛亮は南征を決行した。

子の王山が跡を継ぎ、後に江陽太守となった。

陳寿は、その節義は固く移ろわなかったと評している。また季漢輔臣賛では、その行いは世の規範であり、軍資を増やして職務を全うしたと称えている。

王連という人物は諸葛亮を財政面で支えた有能な人物だったのだろう。その彼が反対したので
諸葛亮としても南征を断行することは彼を尊重しないことであり、強行できなかったのではない
だろうか。

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諸葛亮の北伐は防衛目的だった説 [三国志]

多分に後付けも有る持論。

国家の士気を上げるために「漢室再興」のための北伐が必要だった。
と同時に現実的に国力が魏と比較して大きく劣る蜀。
全く魏に対して攻撃の意志を示さないとどうなるか?

「蜀は恐れる存在ではない。小国併呑すべし。」そんな風に魏に舐められないか。
魏が威嚇攻撃として蜀侵略の出撃を頻繁に繰り返すようになったらどうなるか?

守りに適した地形の蜀という国。撃退は出来るかもしれない。だが、いつ攻めてくるか
わからない魏に怯え、常に守備のための軍隊を備える必要が生じただろう。

ある程度兵糧を計算して「出兵〇日」と決めて兵の損傷を最小限に抑える軍事行動を
取る方が、軍事費も抑制できるのではないだろうか。

とは言え意図を明らかにすれば、そこから軍の緩みや国民の不支持の声が生まれたかもしれない。
諸葛亮自ら出兵することによって「本気度」を見せて、「最小限の軍事費」で被害を小さく
北伐を遂行する。

主導権を握って軍事活動を起こせば、その活動期間はコントロールできる。
計画性を持って行動できる。こんな風に考えることも出来ると私は思う。
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董和・・・地味に好人物で諸葛亮も称賛した人物 [三国志]

董 和(とう か/とう わ、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。
荊州南郡枝江県の人。字は幼宰。子は董允。孫の名は不詳。曾孫は董宏。
『三国志』蜀志に伝がある。
先祖は益州巴郡江州県の出身だという。
後漢末期、一族を引き連れて益州へ移住した。劉璋に取り立てられ、牛鞞県長・江原県長・成都県令を歴任した。
董和は任地において法を厳格にし、自身も倹約に努めたため、奢侈に乱れた風俗は改まり、法を犯す者はいなくなった。地域の有力者らは董和のやり方を嫌い、劉璋に董和を遠ざけるよう進言すると、董和は巴東属国都尉に転任が決まった。しかし、領民は董和を慕っており、留任を乞う者が数千人に及んだことを受け、転任は2年間保留になった。
その後、益州太守に昇格となった。清廉さと倹約ぶりは以前と変わらなかったという。異民族とも協調したため、南方はよく治まった。
ある時、李恢のおばの夫である爨習は法を犯し、李恢も連座して免職となるところであった。だが、董和は爨習が豪族出身であることを理由に罪を許し、李恢の辞職を認めなかった。後に董和は李恢を州に推挙している。
劉備が益州に入ると、董和は掌軍中郎将に任じられた。諸葛亮と共に左将軍大司馬府の事務を担当し、仕事の無駄を省くと共に、諸葛亮と親しく付き合った。
内外の重職を務めること20余年、死去した際、家に財産は全く残されていなかった。
後に諸葛亮は董和を追慕し、部下の官吏に董和の仕事ぶりを見習うよう訓示した。

彼の事績は立派だが地味だ。そのせいか演義であまり大きく取り扱われない。
さらに言えば、息子の董允が諸葛亮の出師の表でも有能な人物として挙げられており、
父に勝る評価を得ているのでややかすむ。
しかしながら、その働きぶりや人格には立派なものが有る。
諸葛亮が「彼を手本にせよ」と最高の評価を与えている点からも彼の優れた人物ぶりが
想像できる。
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樊建・・・人間性も称賛された諸葛亮の側近 [三国志]

樊 建は、中国三国時代から西晋の政治家。蜀漢と西晋に仕えた。字は長元、
荊州義陽郡義陽県の人(「諸葛亮伝」が引く『晋百官表』)。
『三国志』蜀志に独立した伝はないが、「諸葛亮伝」に記録がある。恐らく、その関係で演義では
諸葛亮の側近として描かれたのではないだろうか。

諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令となった。251年には校尉の地位であったが、
このとき呉への使者として赴いた。孫権は重病で樊建と直接対面することができなかったため、
諸葛恪に対し樊建の人物を、かつて使者として呉を訪れた宗預と比較する形で尋ねた。
諸葛恪は「宗預に才能・見識では及ばないが、性質では優っている」と評した。

後に侍中・尚書令となった。261年に諸葛瞻と董厥が平尚書事になると、樊建と三名で国政を
預かることとなった。黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、樊建らはお互いに庇い合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。ただし、樊建だけは黄皓と私的に親しくすることはなかったという。協調性は有ったが迎合的な態度を見せなかったと思える。

263年、魏が蜀に侵攻し、劉禅は降伏した。翌年春、劉禅が一家揃って洛陽へ移送されることに
なると、樊建は董厥と共に従った。洛陽に到着すると、旧蜀の群臣たちとともに列侯に封じられた(「後主伝」)。

その後、董厥と共に相国参軍となり、秋には董厥と共に散騎常侍を兼任した上で、蜀の民心鎮撫に
努めたという。

西晋の給事中であったとき、司馬炎(武帝)に諸葛亮の治世について質問されると、これをおう
賞賛して述べた。司馬炎もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都において鍾会の讒言で
冤罪で誅殺されていた鄧艾の罪の赦免を、平伏して嘆願した。司馬炎は笑ってこれを容認したと
いう(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

彼は才智溢れるような英才ではなかったが、慎み深く、それでも、正義の態度を示せる立派な人物
だったようだ。演義で描かれたように諸葛亮の信任も厚い人物だったことは十分に考えられる。
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傅彤・・・見事な死を遂げた蜀将 [三国志]

傅 彤(ふ とう、? - 222年)は、中国三国時代の蜀漢の武将。「傅肜」(ふゆう)とも表記される
。荊州義陽郡の人。子は傅僉。孫は傅著・傅募。
この出自から判断すると荊州で劉備に仕えたのだろうか。
何せ彼の初登場は彼の最期である夷陵の戦いである。

劉備が呉に惨敗を喫した夷陵の戦いにおいて、退却する蜀軍の殿を務めた。その際、呉の
降伏勧告を受けたが「漢の将軍が呉の狗に降れるか」と罵って戦死した。
その死は、蜀漢滅亡の際に戦死した子と共に、後世から称えられた(『季漢輔臣賛』を
陳寿が補足した部分より)。

関羽の弔い合戦、夷陵の戦い。
参戦している名の有る武将は黄権、馬良ぐらいだ。
彼は本来であれば、その後の蜀を背負う人間だったのかもしれない。
何とも惜しい話だ。
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王平・・・演義と印象が異なる正史の顔 [三国志]

蜀の名将王平。
三国志演義で受けるイメージは堅実で忠実、誠実。
それが・・・。
正史では法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。
と、ここまでは何となく印象通りだが・・・。
「然しながら性格が偏狭で疑い深く、軽はずみな人柄であったため、それが欠点となっていた。」

え?

この記述が非常にひっかっかる。
しかし、この記述のみで具体的に支障をきたした逸話などが紹介されない。

あるいは陳寿は王平が姜維の上位に立つような出世までしなかった裏付けとして、それとなく
このような記述をしたと勝手に妄想している。
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習禎・・・三国志演義に登場しない蜀の名臣 [三国志]

蜀漢に仕えた。字は文祥。荊州襄陽郡の人。
『三国志』蜀書・楊戯伝が引く『襄陽記』によると習禎は洒脱な人物で、談論に巧みであり、龐統に次ぎ馬良より上の名声を持っていたとある。
「少なくとも馬良より上」ということになるが、演義で彼が登場しないのは何故だろう?
私は彼を登場させると勢い、馬良がかすんで、さらには馬謖の能力も格下げされてしまい、
後年の諸葛亮の馬謖重用に不具合が生じるからだと思っている。
如何せん、「白眉」の故事まである馬良と目立った事績の残らない習禎ではインパクトの差が
各段に有る。どちらを優先するかは自明の理だろう。
211年、荊州より劉備に付き従って益州に入り、雒県・郫県の県令を経て広漢太守に昇進した。他に詳しい事績は伝わっていないため、伝は立てられていない。
『季漢輔臣賛』には、善良で広く志を伸ばし、荊州の地の優れた人物だったと評されている。
なお『襄陽耆旧記』(『襄陽記』)や『漢晋春秋』の著者である東晋の習鑿歯は、この習禎の子孫である。
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去り際と言葉で印象が悪くない劉璋 [三国志]

益州の牧で劉備に領土を奪われた劉璋。
彼は優柔不断、惰弱なダメな君主として語られることが多い。
多分に劉備の評価を下げないために泥をかぶらされている感が有る。
彼は劉備に領土を侵攻された際部下に「城に閉じこもり、畑をつぶし井戸に毒を入れれば、兵糧が
乏しく現地調達に頼るしかない劉備軍は撤退する」」という進言に
「民を犠牲にして城を守るなど聞いたことは無い。私はそのようなマネをしない。」と退けた。
そして、血みどろの戦闘を避けて潔く降伏している。
彼は英雄としての覇気が足りなかったかもしれない。だが、善言を守り、民のことを考えたい意見を
述べた点については良い人間であると評価できそうだ。
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三国志と現代の中国・台湾・韓国 [三国志]

勢力国力は三国の中でずば抜けており法体制もそれなりに整っていたが、民の生活は決して良いと
言えなかった魏。
その魏と小国ながら対立。政治はしっかりとしていて漢を継ぐものとしての正統性をよりどころと
した蜀。
実質魏の属国。無道さの目立つ孫権をトップとしていた呉。
現代になぞらえると・・・。
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蜀と現代の台湾 [三国志]

蜀にシンパシーを感じるように、最近の台湾にシンパシーを感じる。
両者共通しているのは、敵対勢力が自勢力よりはるかに強大であること。
そんな中しっかりと独立していること。
政治そのものは蜀は魏よりも、台湾は中国よりもしっかりしているように見える。

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