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鍾会・・・野心が身を滅ぼした人物 [三国志]

鍾会は、中国、三国時代の魏の武将・政治家。字は士季。鍾繇の末子。蜀漢を滅亡させた功労者の
ひとりだが、蜀漢の滅亡後に謀反を起こして殺された。
蒋済は5歳の時の鍾会を「並外れた人間」と高く評価している。鍾会は草書・隷書に巧みで、
他人の筆跡を真似ることも得意であったという。また、文章も巧く論文を多数書いている。
20歳で朝廷に出仕した。父の鍾繇が曹操・曹丕時代の元老であったこともあるが、
才略・技能に優れ、博学で勉強熱心なので、若くして重用されることとなった。正始年間
(西暦240〜249年)に秘書郎に任ぜられて尚書中書侍郎に昇進し、曹髦が皇帝になると
関内侯の爵位が与えられている。司馬師・司馬昭に重用され、毌丘倹・文欽・諸葛誕の乱の
鎮圧に参謀として参加した。
諸葛誕の乱の時は、参謀として軍事を取り仕切り、諸葛誕の救援に来ていた呉の全懌らを
策略で魏に帰順させ、勝利に貢献した。当時の人は鍾会を子房(張良)のようだと言った。
司隸校尉に昇進した。中央官庁から離れても、当時の政治上の変更や賞罰を全て取り仕切った
という。
鍾会は人物眼に優れており、司馬昭に王戎などの才覚ある名臣を多く紹介しているが、
讒言で人を追い落とすことも多かった。嵆康らが処刑されたのも、鍾会の計略によるものである。
鍾会は功績を誇るふしがあり、「野心がその器量より大きい。慎み深くしないといけない」と
友人の傅嘏にたしなめられた。また、司馬昭の夫人・王元姫は夫に常々「鍾士季は利に目を
向けて義を忘れ、何でも自分でやりたがる人です。恩寵が過ぎれば、必ずや見境をなくします。
大任を与えてはなりません」と言っていたという。
司馬昭は鍾会とともに、蜀漢の国力が衰えたので蜀漢を制圧できると考えて、蜀漢の地形を
調査し、状勢を検討していた。262年、鍾会は鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命された。
263年、司馬昭の命で鄧艾らと共に蜀征伐に出陣した。鍾会は胡烈らを先鋒とし関城(陽安関)
を降した。鍾会は田章らに剣閣の西を通り江油へ出る道を取らせ、田章は江油の手前で蜀軍の
伏兵三部隊を撃破した。その後、田章は鄧艾の指揮下に入り、先鋒に命じられた。鄧艾は
綿竹で諸葛瞻らを討ち取り、劉禅は鄧艾に降伏した(蜀漢の滅亡)。劉禅が降伏したあと、
鍾会は略奪を許さず、蜀の官僚達と友好的に接し、姜維と親密になった。鍾会は蜀漢征伐の
功績により司徒に任じられ、県侯に爵位が上がり、一万戸を加増された。
この蜀漢征伐時に、桟道が崩れたことを理由に許儀を処刑し、諸葛緒がひるんで前進しない
と密告し、諸葛緒の兵権を取り上げ配下の兵力を自分のものにしている。また諸葛亮の墓の
祭祀を行なわせている。
『三国志』魏書鍾会伝の注に引く『世語』および『漢晋春秋』によれば、蜀漢に亡命した夏侯覇は
鍾会の才能を高く評価しており、「鍾会は蜀漢・呉にとって心配な事態を招くかもしれません」
と語ったという。
鄧艾が独断専横し勝手な処置をしたので、鍾会は胡烈・師纂らとともに鄧艾を告発した。
その結果、鄧艾は兵権を剥奪され逮捕された。これによって自立の野心を抱いていた鍾会は
大軍勢を一人で統率するようになったので、姜維と手を結んで魏に反逆しようとした。鍾会は
あわよくば司馬昭に取って代わり、失敗しても(蜀漢を築いた)劉備くらいにはなれると計算した。
しかし胡烈の計略により、胡烈の息子の胡淵ら将兵に反逆され、鍾会は殺された。この時
40歳であった。
彼は野心が強過ぎた。また、才能豊かな他人を許せない性格で謀略で有能な人物を死に
追いやったりした。
そんな彼を周囲の人間は危惧したり、憂慮したりしたが、結果としてその予感は当たってしまった
ことになる。




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履歴書の賞罰

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
by 履歴書の賞罰 (2011-10-10 22:00) 

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