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廖立…諸葛亮の評価は過大評価だったのか? [三国志]

廖立は荊州牧となった劉備に取り立てられ、従事となった。30歳に満たないうちに、長沙太守に
抜擢された。諸葛亮は孫権の使者に対して、廖立を「龐統と並ぶ楚(荊州)の良才」と紹介するなど
高く評価していた。これは諸葛亮と並び評された龐統と同等とするものであり、諸葛亮の最大級の
賛辞のように思えるがどうだろうか。
しかし、そのような高評価を得た廖立だったが、建安20年(215年)、劉備と孫権が荊州の領有を
巡って対立し、長沙を含む三郡は呂蒙の急襲を受けた。このため廖立は益州へ逃亡した。
劉備は廖立を評価していたため罪を問わず、巴郡太守に任命した。しかし、職務の遂行状況は
いいかげんなものであったという(『諸葛亮集』)。
建安24年(219年)、劉備は漢中王になると廖立を侍中に任命した。劉禅の皇帝即位後は長水校尉と
なった。
廖立は、自身の才能・名声が丞相である諸葛亮に次ぐと自負していたため、李厳らの下で閑職に
就いていることを常々不満に思っていた。廖立は諸葛亮に対し卿の地位を与えてほしいと要求した。
しかし、諸葛亮は李厳ですらその地位に就いていないことを理由に拒絶したという(『諸葛亮集』)。
ある時、廖立は蔣琬と李邵に処遇について不満を漏らした。さらに、劉備や関羽の軍事的失敗を批判したことを皮切りに、向朗・郭攸之・文恭を凡人とこき下ろし、王連についてもただの俗物であると散々にまくし立てた。蔣琬と李邵は諸葛亮にこの発言をそのまま伝えた。
諸葛亮はこの件を上奏し、誹謗の罪だとして廖立を死罪にするよう劉禅に求めた。劉禅は詔勅を下し、死刑にするのは忍びないので流刑とするよう命じた(『諸葛亮集』)。廖立は庶人に落とされたうえ、汶山郡へ流された。
このような処遇を受けながらも、廖立は諸葛亮ならばいずれ復帰させてくれると考えていたため、諸葛亮の死を知ると「私は結局蛮民となってしまうのだ」と涙を流し、復帰の望みが絶たれたことを嘆いた。
荊州の知識人としては馬謖がいる。劉備は馬謖に廖立と同じ匂いを感じ取り重用をご法度としたのでは
ないかと思っている。
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諸葛亮は孟達に期待していなかった? [三国志]

第一次北伐失敗の原因として馬謖起用とともに挙げられるのが孟達寝返りの活用失敗。
この孟達の謀叛については司馬懿の臨機応変な対応が称賛されることが多い。
私もそれを認めている。一方で別の視点で考えると「諸葛亮はそもそも孟達の蜀への寝返りを
それほど有利な条件として考えていなかったのではないか?」という仮説を立てるに至った。
正史三国志では魏から投降してきた人間が「孟達は今でも丞相(諸葛亮)を慕っている」という
話を聞き諸葛亮は「孟達に手紙を書いてやろう」と答え、それに対して費詩が「孟達は信義にもとる
人物。手紙を書く必要はない」と断じ諸葛亮は黙ったとある。
この逸話は費詩が相手が誰でもひるむことなく直言を語る人物だったというものだ。
さらに言えば結果として費詩の発言は正しいものであり見る明があったとほのめかしている。
費詩は劉備の即位に反対して左遷させられたところを諸葛亮に再抜擢された人物だ。諸葛亮の
費詩に対する評価は高かったのだろう。費詩の発言によって諸葛亮の孟達に対する評価は低いものに
なった。だから孟達に対する諸葛亮の期待は低く孟達の謀叛失敗についてはあまり深刻に受け止めて
いなかったのではないだろうか。
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最終的には諸葛亮を認めていた関羽 [三国志]

演義でも正史でも関羽は最初は諸葛亮を認めていなかった。
古参の自分たちを差し置いて諸葛亮と親密にする劉備に不満を漏らしている。
関羽は諸葛亮の手柄を実際に見るようになってから次第にその真価を認めていくようになったのだろう。
新参の馬超の評判に嫉妬した関羽は諸葛亮に「馬超と腕試しをしたい」と手紙を出している。
この逸話はその時点で関羽が諸葛亮に対してかなり打ち解けているのだなと私は感じている。
諸葛亮は「馬超は確かに優秀だが髭殿(関羽のこと)の絶倫の武勇にはかないません」と返している。
関羽はその手紙を大いに喜び客人に見せてご満悦だったという。
最終的に関羽は諸葛亮に対して親密なものを感じていたのではないか。
士大夫に厳しいと評される関羽だが諸葛亮は例外だったのではないかと私は思う。
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正史は予言、演義は預言 [三国志]

三国志時代は占いの類がもてはやされていたようだ。同時に人の将来を予言する言葉も
記録として残っている。
正史は郭嘉のように分析による孫策の暗殺死のような「予言」が多い。
これは見通しの立て方が優れていたことを説明する際に用いられる。
一方で演義は物語なので諸葛亮などの特定の人物が占いなどのカルトのような力で未来を
当てる「預言」が多い。

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今の中国人は諸葛亮をどう見るのだろう? [三国志]

素朴な疑問。
清廉な政治家。私欲の無いひと。
そのような人物を評価するのだろうか?愚かだと思うのだろうか?
前者だとは言い切れないものを今の中国に感じる。
日本も大差ないかな。
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劉備は蜀で人気が有ったのか? [三国志]

蜀を建国した劉備。
実質的には彼は侵略して主になった立場だ。
蜀の民は劉備を慕ったのだろうか?
劉備の益州侵攻、漢中争奪戦、呉との闘い。
劉備が益州入りしてから連年のように戦争が起こった。劉備益州入り前の領主である劉璋は指導力が
無く軍隊を抑えられなかったという批判こそ有るが、重税や重い賦役を課したという記録はない。
劉備が蜀で人気が有ったとは私には思えない。
劉備死後に法を整えて国家の体裁を整えた諸葛亮の方が人気が有ったのではないかと思っている。
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魏延の軍人としての評価は高いのか?低いのか? [三国志]

三国志演義における魏延は勇猛だが思慮深くない印象が強い。
やたらと抜け駆けをしたがる。
もっとも、劉備軍が荊州を追われた際に状況の不利を顧みずに劉備の正当性を主張して
蔡瑁に立ち向かうなど男気のあるところも見せている。
魏延の「長安奇襲案」は賛否両論だ。だが、国境の最前線である漢中の防御法は蜀滅亡まで
変えられることのない蜀の伝統となっていた。
諸葛亮を「怯」と批判しなければ魏延の評価はもっと高かったかもしれない。
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樊建…諸葛亮の側近に相応しい人物 [三国志]

諸葛亮の死後、董厥の後任として尚書令となった。延熙14年(251年)、校尉の地位であったが、
このとき呉への使者として赴いた。
孫権は重病で樊建と直接対面することができなかったため、諸葛恪に対し樊建の人物を、
かつて使者として呉を訪れた宗預と比較する形で尋ねた。諸葛恪は「宗預に才能・見識では
及ばないが、性質では優っている」と評した。

後に侍中・尚書令となった。景耀4年(261年)、諸葛瞻と董厥が平尚書事になると、
樊建と三名で国政を預かることとなった。黄皓が政治の実権を握るようになっていたが、
樊建らはお互いに庇い合うのみで、政治の歪みを正すことはできなかった。ただし、
樊建だけは黄皓と私的に親しくすることはなかったという。

景耀6年(263年)、魏が蜀に侵攻し、劉禅は降伏した。翌年春、劉禅が一家揃って洛陽へ移送されることになると、樊建は董厥と共に従った。洛陽に到着すると、旧蜀の群臣たちとともに列侯に封じられた(「後主伝」)。

その後、董厥と共に相国参軍となり、秋には董厥と共に散騎常侍を兼任した上で、蜀の民心鎮撫に努めたという。

西晋の給事中であったとき、司馬炎(武帝)に諸葛亮の治世について質問されると、これを賞賛して述べた。司馬炎もこれを受けて諸葛亮を賞賛すると、先に成都において鍾会の讒言で冤罪で誅殺されていた鄧艾の罪の赦免を、平伏して嘆願した。司馬炎は笑ってこれを容認したという(「諸葛亮伝」が引く『漢晋春秋』)。

蜀が魏に降った後もその能力を発揮して蜀の治安に務め、鄧艾の無実を憚ることなく訴えるなど
なかなかの好人物だ。さすがは諸葛亮の側近と言える。
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筆を呵かす興味も気力も稀薄となるのを如何いかんともし難い [三国志]

吉川三国志は諸葛亮死後の物語をダイジェスト風に駆け足でまとめている。
その理由がこれ。
諸葛亮の死後は物語の中心にそえられる人物がいなくなるという。
これは多くの人の共感を得ていることのようだ。
以後の三国志ものもこの価値観を広く受け継いでいる。
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伊籍…聡明な印象の強い蜀の政治家 [三国志]

伊 籍(い せき、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。字は機伯。
兗州山陽郡東緡県(現在の山東省済寧市金郷県)の人。

荊州刺史の劉表と同郷であり、若い頃から劉表に仕えていた。劉表の在世時から劉備に接近し、
劉表の死後は劉備に仕えた。

劉備の益州侵攻に随行し、益州平定後に左将軍従事中郎に任命された。これは簡雍・孫乾らに次ぐ
待遇であった。

呉に使者として赴いた際、孫権は伊籍の弁舌の才を知っていたので、逆に言い負かしてやろうと考えた。伊籍が入ってきて拝礼したところで、孫権は「無道の主君に仕えて苦労しているのか?」と
言った。伊籍は「一度拝礼して一度起つのを苦労とは言いません」と暗に孫権を非難した。
伊籍の機智は全てこのようであったので、孫権はたいそう見事だと感心したという。

後に昭文将軍に昇進し、諸葛亮・法正・劉巴・李厳と共に蜀の法律である蜀科を起草した。

もう少し諸葛亮とのやり取り等記録に残っていればと思う。それが少し残念。
だが、孫権とのやりとりの光明さ、蜀の法律の起草者であることを考えると有能な政治家だったと
推測される。
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初見で龐統を過少評価した劉備 [三国志]

三国志の時代も外見は結構重要だったようだ。
それを証拠に列伝での評の中に外見に言及する記載が多い。

悪い方で目立つ一人は龐統だ。
外見だけで劉備は判断して高く評価せず地方の閑職に配置してしまう。

劉備は人を差別しない印象があるのでこの逸話は個人的には意外に感じる。
荊州を支配したばかりで多くの人材を獲得していた時期だったので人を見る時間が
無かったのか。はたまた龐統の見た目が本当にうだつが上がらなかったのか。

もっとも演義ではこの逸話が有ったので後に同様にブ男の張松を軽く見ることを回避できだように
思える。
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姜維に対する諸葛亮の評価 [三国志]

三国志演義における諸葛亮の姜維に対する評価は極めて高い。
正史における評価もなかなかだ。
「漢王室への熱い忠誠の心を持っている。陛下に拝謁する栄誉を与えたい。」
「涼州でもっとも優秀な人物。馬良をも凌ぐ。」
演義はこの評価をもとに姜維への評価を高めたのだろうか。
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馬謖以外の人間が同じ失敗をしていたら処刑されたか? [三国志]

個人的に気になるIF。
私は人によると思っている。
例えば、李厳や魏延のごとくなんとなくウマが合ってなそうな人間が軍令無視で失敗した場合は
死刑にはしないと思う。それは私憤と混同していると誤解されることを避けるためだ。
諸葛亮に目をかけられていると見られる可能性が高い人間が同じ失敗をすれば死刑にされたのではない
かと考える。
法家主義のバランスだ。
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魏が天下統一出来なかった理由 [三国志]

三国志の中で圧倒的優位な国力でありながら天下統一出来なかった魏。
何故統一出来なかったのか?
理由の一つとして挙げられること、それは統一する意欲が無かった。
曹操亡き後の曹家は建国者の曹丕こそ野心が強かったその後は天下には淡白。
特に曹叡は建物の建築に注力するなど領土拡大翌を感じない。
この辺の事情が司馬一族に国を乗っ取らせる下地になったのかもしれない。
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李福・・・出番は少ないが印象に残る人 [三国志]

三国志演義の登場人物は1192名と言われる。
名前のみの登場で目立った活躍のない人物は珍しくない。
李福は一度しか出番が無いが記憶に残る男だ。
諸葛亮臨終の際に劉禅の使者として訪れ大事なことを訊き忘れて帰りそうになる。
諸葛亮亡き後の後継を誰にすべきかという重要事項だ。
諸葛亮は笑って「李福が戻ってくるぞ」と予言してその通りになり後継者を指名する。
『三国志』において、陳寿は彼を「緻密な知識を持ち、決断力に富んでいた。大志を持っており、蜀の支えとなる人物であった…」と評価している。
ちょっと演義の記述だけでは信じがたい(笑)。
私の中ではうっかり屋さんとして演義の中で覚えている一人に輝いている。

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蜀衰退の原因を考察 [三国志]

蜀が滅んだ原因として君主劉禅の暗愚、宦官黄晧による政治腐敗等が挙げられるが、私は個人的に
「蜀の超高齢化」を推したい。
蜀書を読むと蜀末期に活躍している重臣の老齢ぶりが目立つ。姜維にしても60を越えて軍のトップだ。
軍の幹部も張翼やリョウ化など老人が目立つ。
蜀は少子高齢化の国だったのかもしれない。若者が育ちにくい国だったのではないだろうか。
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黄皓・・・蜀滅亡の一因となった宦官 [三国志]

諸葛亮の死後、劉禅に寵愛され引き立てられた。監視役の董允の存命中は黄門丞という低い役職のままであったが、陳寿によると後を継いだ陳祗の政治は帝にへつらい宦官におもねるものであったとされ、記録によると黄皓は陳祗の代になって黄門令に昇進した。後主伝によると黄皓がはじめて政治的な権限を手中にしたのは陳祗の死後である258年からだとされ、陳祗の死後は一気に中常侍・奉車都尉へ昇格し、国の実権を握るようになった。

景耀5年(262年)、姜維を追放して代わりに閻宇を立てようと画策した。この画策は黄皓の独断ではなく、諸葛瞻・董厥も同調している。姜維は黄皓の専横を憎み、処刑するよう劉禅に請願したが聞き入れられなかったため、黄皓や諸葛瞻らによる身の危険を感じて以降成都に帰還出来なくなった。なお、黄皓は『三国志』の著者である陳寿が蜀漢に仕えていた際、彼を憎んで免職にしている。また、甘陵王の劉永は黄皓を憎んでいたため、この事で黄皓から讒訴され、十余年に亘って朝廷への謁見が許されなかった。更に羅憲も黄皓に阿らなかったため、中央から巴東太守に左遷されている。諸葛瞻・董厥・樊建は当時の政務を担っていたが、互いに庇い合うばかりで黄皓の専横を止める事ができず、政治の乱れを矯正できなかった(ただ、樊建は黄皓と親しくする事がなかった)。一方で郤正は、宮廷内の官職に就いてからというもの、彼と屋敷を並べて働く事30年にも亘った(このことから、遅くとも233年の時点で彼が仕官して暫く時間が経過している事が分かる)が、気に入られも憎まれもしなかったため、官位も600石(地方の太守が2000石)を超える事がなく、讒言による被害も免れている。 

また同時期に、蜀での使者の任務を終えて帰った呉の薛珝は、孫休に蜀の政治を問われた際、黄皓の名前を挙げてはいないが「主は暗愚で過ちに気付かず、臣下は我が身が可愛くて、一向に罪を被らない様に努め、朝政でも正言を聞く事が出来無い」と言っている。呉の張悌は宦官が蜀の朝政を恣にしているため、国家の正式な政令が権威を持っていないと断じた。

翌年、魏が攻撃準備をしていると姜維から援軍要請があったが、黄皓は鬼神や巫女の神託を信じ、敵が来ないと考えていたため、劉禅にこのことを採り上げないよう意見した。そのため、蜀は迎撃体制が整わぬまま魏の攻撃を迎える事になった。綿竹で魏軍と戦った諸葛尚は、魏に敗れた際「早く黄皓を斬らなかったがためにこんな事になってしまった。生きていて何になろう」と言って突撃し、戦死した。

蜀滅亡後、魏の鄧艾は成都に入ると黄皓の邪悪・陰険さを聞き知り、逮捕・幽閉して殺害しようとした。しかし黄皓は、鄧艾の側近に手厚く賄賂を贈ったためこの時は死を免れたが,後日に生じた鐘会・姜維の反乱時に売国の恨みを持つ旧蜀軍民の手で処断されたとも保身の図るための賄賂が反徒への支援と見做され反乱鎮圧時に魏軍の手に掛かったともいわれ,混乱の中で無惨な最期を遂げる。

彼ばかりが蜀滅亡の原因ではないが、何とも嫌な人物だ。その最期が悪の報いを受けたものであることがせめてもの救いか。
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応変の略はその長ずるところにあらずか [三国志]

正史三国志の陳寿の諸葛亮評。
これをとらえて陳寿の諸葛亮に対する辛口評価と見る人もいるが、そう見ない人もいる。
諸葛亮は臨機応変の策略を長所としていなかったのか。
これは苦言ではなく、敬愛する人物が惜しくも天下を統一出来なかったのは「色々優れた人物だったが、残念ながら天下を取れなかったのは臨機応変の策略は得意としてなかったからだろうか」と
嘆息したコメントであれば、決して苦言ではなく惜しむ気持ちであると受け止められるように思える。
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孟達は諸葛亮に期待されていなかった? [三国志]

諸葛亮の第一次北伐は色々と「IF」で考えて「ああすれば成功していたかもしれなかったのに」と
思われる仮定が存在する。その一つが「孟達の裏切りをもっとうまく活用できていれば…」というIF。
蜀に接する魏の領土である上庸。この地の太守だった孟達を領土ごと取り込めば蜀にとって有益だと
思えるが、それはかなわなかった。そして何故か孟達が蜀への内応を持ちかけられたときも諸葛亮から
それを意図する発言が無かった。何故?
私的な見解だが太守である孟達が蜀への裏切りを決断してもその配下が応じないという計算が諸葛亮には有ったのではないか。
諸葛亮が益州南部の平定を終えた頃「孟達が今でも諸葛亮を慕っている」とう情報を得て諸葛亮は
「孟達に手紙を書こう」と発言しているがこれだけをもって諸葛亮が孟達を信任しているとは言い難い。
さらに費詩の「孟達は裏切りを繰り返している男。そのような男に手紙を書く価値は無い。」と言われて黙ってしまっている。
正史三国志において諸葛亮が孟達を評価している場面は孟達への手紙が紹介される場面のみ。
それも社交辞令的なものと考えるのは邪推か。そして蜀は何故か上庸という土地への興味やこだわりが無いように感じられる。この地を奪っても守るのが困難だと判断していたのではないか。
結論として、諸葛亮は孟達を挙兵させて反乱して魏をかき回してくれたら儲けもの程度の期待しか
寄せていなかったと推測する。
孟達の死を惜しんだ諸葛亮という描写は全くない。
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糜芳・・・許しがたい裏切り者 [三国志]

はじめは兄と共に陶謙に仕え、次いで劉備に仕えた。劉備が曹操を頼った際に、
曹操から彭城国の相に任命された。しかし、劉備が曹操から離反するとそれに従った。

劉備が益州に入った後、関羽は荊州総督となった。糜芳は南郡太守に任じられ、公安を守る士仁(演義では「傅士仁」)と共に荊州の防衛を任された。しかし関羽が彼らを軽んじていたこともあり、かねてから折り合いが悪かった。219年、関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行なうだけで、全力で支援しようとしなかった。また、南郡城内で火事が発生し、軍器を多数焼失したことがあった。これらの不始末を聞いた関羽は「帰ったら処罰してやる」と、糜芳を激しく咎めた。これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになり、内心不安になったという。このことを聞いた孫権が糜芳に誘いをかけると、糜芳は孫権と内通するようになった

これ以後、糜芳は孫権の将軍となり、呉に仕えることになった。「呉書」賀斉伝によると、223年に孫権の命で賀斉配下の武将となり、呉から魏に寝返って反乱を起こした晋宗を討伐したという記述がある]。

『三国志』に引用された『季漢輔臣賛』によると糜芳らは蜀呉二カ国で裏切り者として笑いものになったという。 「呉書」虞翻伝によると、糜芳は呉に仕えるようになってから、虞翻と船ですれ違ったことがあった。糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「(旧主の劉備に対して)忠信(節義)を守れなかった者が、何によって主君に仕えるというのか。二城(南郡・公安)を任されながらそれを失った者が、将軍を名乗ってよいと思っておるのか」と罵倒した。糜芳は姿を見せず返答もしなかったが、急いで虞翻の船を避けさせた。また、ある時に虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないということがあった。虞翻はまた腹を立て「(城門を)閉めるべき時に開けて降伏をしながら、開けておくべき時に門を閉ざしている。物事の道理をわかっておるのか」と再び罵倒した。糜芳はこれに恥じ入り、門を開けさせた。

彼は関羽を神格化扱いする演義では許されない存在として関羽の息子の敵討ちに遭い死んでいる。
個人的には演義の惨めな最期よりも虞翻の痛烈な嫌味の方が溜飲が下がる。
何とも許しがたい裏切り者だ。
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法正の死 [三国志]

劉備にとっての謀臣と言えば私は法正を推す。
彼への劉備の信任ぶりは諸葛亮とはまた違った意味で大きかった。
法正は品行方正な人物どころではなく、過去に受けた仇を復讐するような問題の有る人物だった。
しかしながら彼の戦略眼はなかなかのものだった。
漢中を奪う際に「上は天下を下でも益州を守れ、中で涼州を奪える」と劉備を説いて攻略を促した。
残念ながら中の涼州を奪うことなく彼は他界した。220年。関羽が死んだ年に病死した。
関羽が敗死する頃彼も病床だったのではないだろうか。
220年に蜀(この時点では建国していないが)にとっては関羽同様惜しい人材を失った。
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恩賞を辞退した趙雲への疑問 [三国志]

蜀の第一次北伐は馬謖の命令無視により失敗に終わった。
不幸中の幸いとしては殿を務めた趙雲の見事な兵の指揮ぶりで損害を最小限に抑えられたこと。
諸葛亮は趙雲の功績に恩賞を与えようとした。だが、趙雲は「敗北なのに恩賞は受け取れない」と
辞退した。
このような趙雲の態度には賞賛したいものがある。一方で恩賞を貰えればその恩恵を受けられたで
あろう彼の指揮下の兵を思うと気の毒な気もする。
くどく説明されていないだけで趙雲が自腹を切って彼の兵に恩賞を与えたのだろうか。
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董和・・・諸葛亮に認められた人物 [三国志]

董 和(とう か/とう わ、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。荊州南郡枝江県の人。
字は幼宰。子は董允。孫の名は不詳。曾孫は董宏。『三国志』蜀志に伝がある。
先祖は益州巴郡江州県の出身だという。
後漢末期、一族を引き連れて益州へ移住した。劉璋に取り立てられ、牛鞞県長・江原県長・成都県令を歴任した。
董和は任地において法を厳格にし、自身も倹約に努めたため、奢侈に乱れた風俗は改まり、法を犯す者はいなくなった。地域の有力者らは董和のやり方を嫌い、劉璋に董和を遠ざけるよう進言すると、董和は巴東属国都尉に転任が決まった。しかし、領民は董和を慕っており、留任を乞う者が数千人に及んだことを受け、転任は2年間保留になった。

その後、益州太守に昇格となった。清廉さと倹約ぶりは以前と変わらなかったという。異民族とも協調したため、南方はよく治まった。

ある時、李恢のおばの夫である爨習は法を犯し、李恢も連座して免職となるところであった。だが、董和は爨習が豪族出身であることを理由に罪を許し、李恢の辞職を認めなかった。後に董和は李恢を州に推挙している。

劉備が益州に入ると、董和は掌軍中郎将に任じられた。諸葛亮と共に左将軍大司馬府の事務を担当し、仕事の無駄を省くと共に、諸葛亮と親しく付き合った。

内外の重職を務めること20余年、死去した際、家に財産は全く残されていなかった。

後に諸葛亮は董和を追慕し、部下の官吏に董和の仕事ぶりを見習うよう訓示した。
諸葛亮にも認められた高潔の人物であったと言えそうだ。

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宮城谷三国志 [三国志]

辛口な意見になってしまうがファンの方にはご勘弁願いたい。
色々な三国志ものを読んだ。宮城谷三国志もその一つ。
スタンダードは吉川三国志だと思うが正史ベースで物語を構築した陳舜臣や北方三国志も
好きだ。だが今一つ苦手な三国志も有る。
宮城谷三国志は苦手な一つ。
物語の展開の中で正史の紹介、それをベースにしたオリジナルストーリーが展開されたり、
登場人物のセリフがアレンジされているが個人的には今一つ。
三国志ものにも好みというものがはっきりと有る。
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劉備が見抜いた馬謖の力量 [三国志]

泣いて馬謖を斬る。
諸葛亮が周囲の反対を押し切り重用して失敗してしまった馬謖。
実はかつてその諸葛亮に「馬謖を重く用いるな」と忠告していたのが劉備。
劉備は何故馬謖の力量を見抜けたのだろう。
明確な資料は今のところ無い。史実に基づいて推測するしかないのだ。
馬謖は要職を歴任したと記録されている。私はここに着目する。
期待の星だった馬
泣いて馬謖を斬る。
諸葛亮が周囲の反対を押し切り重用して失敗してしまった馬謖。
実はかつてその諸葛亮に「馬謖を重く用いるな」と忠告していたのが劉備。
劉備は何故馬謖の力量を見抜けたのだろう。
明確な資料は今のところ無い。史実に基づいて推測するしかないのだ。
馬謖は要職を歴任したと記録されている。私はここに着目する。
期待の星だった馬謖。様々な職を経験させたが馬謖の口先ほど実績を残せないまま、ポジションを
変えたのではないかと考える。これならば劉備は実態を見て「馬謖は口先ほどではない」と
断じることが出来そうだがどうだろう?

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関羽の敗死は誰のせいか? [三国志]

三国志演義が重苦しく感じられるのは関羽の死あたりからだ。
物語のはじめは桃園の誓い。その3人の中の一人関羽が死ぬことはとてつもなく悲しい。
そして彼の死を皮切りに張飛、劉備も死んでいく。
関羽の死は誰のせいだろうか?
関羽本人のせいである面は否めない。本来同盟相手である孫権との不和が生じた原因を作ったのは
彼だから。
一方で関羽の主君である劉備の責任も見逃せない。いくら益州、そして漢中まで領土を広げたばかりとは
いえ、荊州への人材配置が甘くはなかったか。おまけに当時孫権勢力とは荊州領土をめぐって緊張関係が
続いていたのに警戒が甘すぎた感がある。
最後に孫権の存在を挙げておきたい。彼は曹操の勢力への抵抗をあきらめ降伏している。
これは三国鼎立という形勢において戦略バランスを更に曹操陣営に有利なものにした行為となっている。

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宮城谷三国志は個人的には馴染まない [三国志]

宮城谷昌光氏は三国志ものの小説をいくつか書いている。そして日経新聞で今連載している。
個人的な評価は今一つ。
演義の合間に史実の紹介を入れる手法と少し登場人物の説明口調の話し方が物語の勢いを
そいでいるように感じる。
名作のアレンジもなかなか難しいようだ。
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北方三国志 [三国志]

北方三国志は戦闘シーンが生き生きとしている。劉備軍伝統の死の調練。
一匹のケダモノのような動きの軍など形容の仕方や描写が鮮やかだ。
氏は「三国志演義は読まず正史に準拠した」と言っているが怪しいと思っている。
馬超の挙兵を父を殺された恨みとして書いているが、それは演義オリジナルの話であり
正史では馬超が反乱したので父が処刑されたとなっている。
その他の美点としては「骨のある文官」の活躍が目立つ。
突込みどころも多いが読み物としてなかなか面白い。
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打つ手に失策無し [三国志]

正史三国志では智謀の人に関する列伝が数多紹介されている。その中でも評価がずば抜けて高い一人が
魏の荀攸である。その評は「打つ手に失策無し」。彼の考案した謀に対する最大級の賛辞。
これを現代の政治家について考えるとその真逆の政治家が思い浮かぶのが残念です。
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今の中国を見れば諸葛亮の政治の素晴らしさがわかる。 [三国志]

諸葛亮の政治の根本は法治主義だった。しっかりとした法順守の徹底が国の規律となり、
不正がなくなり民が安心して仕事に励める世の中になる。
彼は数度の軍事活動を起こしながらも戦闘による損傷を最小限に抑えて国力の低下を防いだ。
彼の治世ぶりはかなりきめ細かったにもかかわらず民は恨まなかった。
怨嗟の声無し。犯罪は減り道に落ちているものを拾う(盗む)人はいなかったという。
今の中国を見ると大きく隔たりを感じる。現代と比較することで諸葛亮の偉大さがよくわかる。
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