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黄皓・・・蜀滅亡の一因となった宦官 [三国志]

諸葛亮の死後、劉禅に寵愛され引き立てられた。監視役の董允の存命中は黄門丞という低い役職のままであったが、陳寿によると後を継いだ陳祗の政治は帝にへつらい宦官におもねるものであったとされ、記録によると黄皓は陳祗の代になって黄門令に昇進した。後主伝によると黄皓がはじめて政治的な権限を手中にしたのは陳祗の死後である258年からだとされ、陳祗の死後は一気に中常侍・奉車都尉へ昇格し、国の実権を握るようになった。

景耀5年(262年)、姜維を追放して代わりに閻宇を立てようと画策した。この画策は黄皓の独断ではなく、諸葛瞻・董厥も同調している。姜維は黄皓の専横を憎み、処刑するよう劉禅に請願したが聞き入れられなかったため、黄皓や諸葛瞻らによる身の危険を感じて以降成都に帰還出来なくなった。なお、黄皓は『三国志』の著者である陳寿が蜀漢に仕えていた際、彼を憎んで免職にしている。また、甘陵王の劉永は黄皓を憎んでいたため、この事で黄皓から讒訴され、十余年に亘って朝廷への謁見が許されなかった。更に羅憲も黄皓に阿らなかったため、中央から巴東太守に左遷されている。諸葛瞻・董厥・樊建は当時の政務を担っていたが、互いに庇い合うばかりで黄皓の専横を止める事ができず、政治の乱れを矯正できなかった(ただ、樊建は黄皓と親しくする事がなかった)。一方で郤正は、宮廷内の官職に就いてからというもの、彼と屋敷を並べて働く事30年にも亘った(このことから、遅くとも233年の時点で彼が仕官して暫く時間が経過している事が分かる)が、気に入られも憎まれもしなかったため、官位も600石(地方の太守が2000石)を超える事がなく、讒言による被害も免れている。 

また同時期に、蜀での使者の任務を終えて帰った呉の薛珝は、孫休に蜀の政治を問われた際、黄皓の名前を挙げてはいないが「主は暗愚で過ちに気付かず、臣下は我が身が可愛くて、一向に罪を被らない様に努め、朝政でも正言を聞く事が出来無い」と言っている。呉の張悌は宦官が蜀の朝政を恣にしているため、国家の正式な政令が権威を持っていないと断じた。

翌年、魏が攻撃準備をしていると姜維から援軍要請があったが、黄皓は鬼神や巫女の神託を信じ、敵が来ないと考えていたため、劉禅にこのことを採り上げないよう意見した。そのため、蜀は迎撃体制が整わぬまま魏の攻撃を迎える事になった。綿竹で魏軍と戦った諸葛尚は、魏に敗れた際「早く黄皓を斬らなかったがためにこんな事になってしまった。生きていて何になろう」と言って突撃し、戦死した。

蜀滅亡後、魏の鄧艾は成都に入ると黄皓の邪悪・陰険さを聞き知り、逮捕・幽閉して殺害しようとした。しかし黄皓は、鄧艾の側近に手厚く賄賂を贈ったためこの時は死を免れたが,後日に生じた鐘会・姜維の反乱時に売国の恨みを持つ旧蜀軍民の手で処断されたとも保身の図るための賄賂が反徒への支援と見做され反乱鎮圧時に魏軍の手に掛かったともいわれ,混乱の中で無惨な最期を遂げる。

彼ばかりが蜀滅亡の原因ではないが、何とも嫌な人物だ。その最期が悪の報いを受けたものであることがせめてもの救いか。
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