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闞沢・・・慎み深い呉の良臣 [三国志]

彼は、農民の家の出身で貧乏であったが、勉学に励み、学資稼ぎのため書籍の書写仕事を請け負い、
一冊の本を書き写したときには、その内容の全てを暗誦するほどであった。こうして学識を深め、
師事する人物を求めて議論を多くし、多くの書籍に目を通した。郷里でも博識の人物と高く評価された。
暦の計算にも通じたという。
闞沢は孝廉に推挙され、銭唐県の県長・郴県の県令となった。
219年]、孫権が驃騎将軍に任命されると、闞沢は驃騎将軍府に招かれ、西曹掾となった。
謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、他人の欠点をあしざまに指摘するようなこと
もせず、呉における人望は厚かった。容貌に威厳はなかったが、知識の広さは群を抜いていた。
あるとき、孫権に一番素晴らしい経書や解釈、散文や韻文の中でとれが一番優れているか尋ねられたとき、孫権に国家の治乱について知ってもらおうと考え、『過秦論』を読むよう勧めた。
赤烏6年(243年)冬に死去。孫権は数日間その死を惜しみ、食事を摂らなかったという。
『三国志』の編者陳寿は巻末で、厳畯・程秉と並んで一代の学者であると評した。また、刑の
厳罰化や官吏の不正監視の強化に反対した逸話を引き、和を尊び正道を貫いたと評している。
三国志演義では、まず孫権の代に集まった人材の一人として名が登場する。赤壁の戦いのとき、
黄蓋の苦肉の策を見抜いて進んでこれに協力し、甘寧達と謀議を巡らしている。さらに曹操の下へ
使者として赴き、黄蓋の降伏を疑った曹操を、優れた弁舌で丸め込むなどの活躍を見せている。
また、劉備が攻め込んできた夷陵の戦いの時、相次ぐ敗戦にうろたえる孫権に対し、陸遜を大都督に
任命するよう推挙し、陸遜を過小評価する張昭・顧雍・歩騭らの反対を弁舌で退けている。

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