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宗預・・・蜀の名外交官 [三国志]

字を徳豔(とくえん)。南陽郡安衆(あんしゅう)県の人。張飛に従い入蜀した。223年(建興元年)、
丞相の諸葛亮に主簿に任じられ参軍右中郎将に昇進する。
諸葛亮没後、呉の孫権は魏が蜀を攻めるのではないかと懸念して、巴丘に1万の兵を増員したため、
蜀の側も白帝城の兵を増員し、呉蜀間に軍事的緊張が生じた。宗預は呉への使節となり呉蜀間の緊張を
解き、孫権から鄧芝、費禕に次ぐ評価を与えられた。
待中に昇進。尚書に移り、247年(延熙10年)屯騎校尉。この時60歳(概数か)で、初めて軍事に参与した
ことは礼に反するのではないかと鄧芝にたずねられたが、鄧芝こそ70代で兵権を返していないこと
を挙げそれに反論した。鄧芝は車騎将軍、江州総督の地位にあり、驕慢な性格で知られており、
大将軍として蜀の実権を握っていた費禕にも遠慮されていたが、宗預だけは鄧芝に遠慮しなかった。
再び呉に使いしたとき、孫権は宗預に対し、お互い高齢で自分は衰退しているから、これが最後の別れ
になるだろうと宗預との別れを惜しみ、真珠を一石与えた。
将軍に昇進し、永安駐屯軍の指揮官となる。任地にて征西大将軍に任命され、関内侯の爵位を賜わる。
258年(景耀元年)病により成都に召喚される。鎮軍大将軍となり、兗州刺史を兼任。諸葛瞻が政治を
執るようになると、廖化に、諸葛瞻の元に共に行くことを勧められたが、お互い70代なのに、年下の者に
おもねることもないだろうと、これを拒否した。気骨の人だったのだろう。
264年(咸熙元年)、前年に蜀が魏に滅ぼされたため(蜀漢の滅亡)、廖化と共に洛陽に護送される
途中で病死した。
蜀は滅亡時、彼のように失意のまま病死した人が多い。決して、腑抜けばかりの国だったわけではない。
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