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于禁・・・厳格な名将の最期 [三国志]

黄巾の乱に際して同郷の鮑信が義兵を募った時に、それに参加した。
192年、鮑信が戦死すると曹操の下に馳せ参じ、将軍の王朗の配下に加えられ、都伯となった。
王朗は于禁の才能を高く評価し、優に大将軍とするに足るとして推挙した。
曹操との面談により軍司馬に任命された于禁は、陶謙が治める徐州の広威を攻撃、これを
陥落させ陥陣都尉に昇進した。呂布との戦いでも、濮陽の南にある呂布の別陣を2つ破り、
別働隊を率いて須昌において将軍の高雅を破り、寿張・定陶・離孤の征討に参加、さらに張超が
立てこもる雍丘を陥落させるなど功績を立てた。
また苦における袁術軍の橋蕤包囲に従軍し、橋蕤ら4人の将を斬った。
197年(「武帝紀」)、曹操に従い宛まで行き張繍を降伏させた。その後、張繍が反乱を起こしたため、
曹操軍は大混乱に陥り舞陰に撤退することになった。この時、于禁だけが手勢数百を率い、
戦いながら退却したため、死傷者は出たものの離散者は出さなかった。途中、日頃から曹操に
寛大に扱われている青州兵が、味方に略奪を働いたことを知ると、于禁は立腹してこれを攻撃した。
青州兵は曹操に訴え出たが、于禁は弁明を後回しにし、敵の攻撃に備えて陣営を設け終わった
ところで、曹操の下に出向いて事情を詳しく説明した。曹操は「そなたの何事にも動じない節義は、
古の名将に勝る」として賞賛した。
于禁の前後にわたる功績が評価され、益寿亭侯に封じられた。曹操に従軍して穣で張繡を攻め、
下邳で呂布を生け捕りにし、別働隊として史渙・曹仁とともに射犬で眭固を攻めて打ち破り、
これを斬った。
冀州が平定された後に、昌豨が再び反乱を起こしたため、その鎮圧に于禁が当たった。
昌豨は于禁が旧友であることを頼りに降伏したが、于禁は「包囲された後に降伏した者は
赦さない」という法に従って、淳于に駐屯する曹操の指示を仰ぐべきだとする諸将の反対を
押し切り、涙を流しながら自らの手で昌豨を処刑した。曹操はその判断を褒めながらも「于禁
以外の将に降伏すれば良かったものの」と、昌豨を哀れんだと言う。東海が平定されると、于禁は
虎威将軍に任命された。曹操は賞賛したが、彼の行為は果たして正しかったのだろうか?
食邑を200戸加増し、以前と合わせて1200戸とした。
当時、于禁は張遼・楽進・張郃・徐晃とともに名将と謳われており、曹操が征伐に出るたび、
皆代わる代わる、進攻のときは先鋒となり、撤退のときは殿軍となっていた。
于禁の人柄は剛毅で威厳があった。賊の財物を手に入れても懐に収めず、賞賜を与えるなど
清廉でもあったが、法律を重視して部下を統率するなど法律を絶対視することがあり、
あまり兵士・民衆の人望を得る事ができなかった。曹操は朱霊の軍勢を取り上げる時に、
威名が轟いていた于禁に数10騎を与えて指令書を届けさせた。すると、朱霊やその部将たちは
反抗することなく于禁に服従した。そして朱霊を于禁の部下にしたが、皆恐れて服従した。
このように于禁は人々から一目置かれていた。だが、その人物が慕われてはいなかったようだ。
左将軍に昇進し、仮節鉞を与えられた。領邑を500戸分割し、一子も侯に取り立てられた。
この時点での于禁は、王忠・楊秋など客将扱いの将軍を除けば、官職上は曹操配下の外様
武官の中では、楽進と並んで筆頭に位置し、親族を含めても、立場上曹操と対等である夏侯惇に
次ぐ地位にあった。
219年、曹操が長安にいるときに、劉備配下の関羽が北上し曹仁の守備する樊城を包囲した
(樊城の戦い)。于禁は援軍の将として七軍を率いて出陣した。この時、漢水を遡るつもりで
船を用意していた関羽に対し、陸路を伝ってきた于禁らは船を持っていなかった。そこに漢水の
氾濫が発生したため、于禁ら七軍は水没し、于禁は龐徳と共に、なす術もなく捕らえられ、
于禁が率いていた3万の兵も捕虜となった。龐徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となったが、
于禁は関羽に降服して助命された。曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知ってから
30年になる。危機を前にし困難に遭って、(忠義を貫いて死を選んだ)龐徳に及ばなかったとは
思いもよらなかった」と言ったという。
孫権が荊州を奪うと、江陵で捕虜となっていた于禁は、今度は孫権によって捕らえられ賓客
として持て成されたが、虞翻にはその態度を罵倒され、さらに忠義を貫けなかった者への
見せしめに于禁を殺すよう主張されたが、孫権は取り合わなかった。于禁は帰国した後、虞翻を
大いに称賛したという(呉志「虞翻伝」が引く『呉書』)。
曹操が亡くなり、曹丕(文帝)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に藩国としての礼を取った。
221年、于禁は他の捕虜とともに魏に送還されることとなった。
曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりと窶れていた。曹丕は
于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命。呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を
参拝させた。曹丕は予め関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服した有様を
絵に描かせておいた。于禁はこれを見ると、面目無さと腹立ちのため病に倒れ、死去した。
諡は厲侯。厲は「無辜の者を殺戮した」『災い』・『厳しい』などの意味がある。于禁は死後までも
嘲られたのだった。于禁と同じく汚名を残したまま死去した鄧艾や呉質が、後に汚名を返上する
機会が有ったのに対して、于禁は最後まで機会が与えられなかった。
曹操の廟庭には建国の功臣が祀られたが、于禁と官位がほぼ同格の張遼・楽進・徐晃ら、
格下の李典・龐徳・典韋らが祀られているにも関わらず、于禁は祀られていない。
北宋の司馬光は『資治通鑑』で、「于禁は数万の将兵を率いていた。敗れても死ぬことが
できずに生きて降伏し、また帰って来た。文帝(曹丕)はこれ(于禁)を罷免することも、殺すことも
できた。それなのに陵屋に(降服した有様を)描かせてこれを辱めた。君主のやることではない」と、
曹丕の仕打ちを批判している。
彼は人に厳しかった。法に厳格な態度は人々に畏れられたが親しまれなかった。恨みを買う
ことも少なくなかったのではないか。もし、関羽に降伏せずそこで死んでいたら彼の評価は
どうだっただろう?

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