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王連・・・諸葛亮を財政面で支えた文官 [三国志]

彼は、劉璋の時代に益州に移り、梓潼県令となった。213年、成都に侵攻を開始した劉備軍が
梓潼に進出したが、城門を閉ざして降服しなかった。益州平定後、その義に感じ入った劉備から、
什邡県令、のち広都県令に任命され、それぞれの地で治績をあげた。その後、司塩校尉に昇進した。
塩と鉄の専売により、国庫の収入を大幅に増加させると共に、呂乂・杜祺・劉幹といった有能な
人物を属官として任用した。また、蜀郡太守・興業将軍に昇進した後も、引き続き塩府の仕事を
担当した。
223年、屯騎校尉に昇進し、丞相長史を兼務。平陽亭侯に封ぜられた。諸葛亮が自ら南征に
赴こうとした際には「南方は不毛の荒れ地で、風土病の多い土地です。一国の期待を担う人物が、
危険を犯し出掛けるべきではありません」と、何度も諫言した。このため、王連の存命中は
諸葛亮も成都に留まっていた。しかし彼がまもなく亡くなったため、やはり南征に出発することとなった。
後主伝によると、諸葛亮が南征を実施したのは225年のことである。
益州入りの際に抵抗を示した王連を任用した劉備に懐の深さを感じる。
そして、注目すべきは、塩・鉄を専売制にして蜀の財政を支えた王連の手腕だろう。彼は
諸葛亮の身を心配して南征に反対している。諸葛亮は王連を尊重していたようで、彼在世中は
南征を控えた。個人的な根拠の薄い推測だが、王連の塩・鉄専売の手腕は高く、彼死後は
その穴が埋めきれず蜀の財政に少なからずマイナス影響を及ぼし、諸葛亮は歳入を南部に
求めたのではないだろうか。

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