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禰衡・・・皮肉屋の末路 [三国志]

興平年間、荊州に避難した。建安年間の初め、遷都されたばかりの許に上京した。しかし、才能を
鼻にかけて傲慢な態度をとったうえ、他人の評価に対しては酷評を行なったため、人々から憎まれた。
ただ、孔融だけは禰衡を高く評価し、曹操にも推薦していた。
『三国志』の注『平原禰衡伝』・また『後漢書禰衡伝』によると、若い頃から並外れて恵まれた才能を
もっていたが、それを鼻にかけて傲慢不遜な態度をとり、かつ奇矯な言動が多い上に、しかも桁外れで
徹底していた。『後漢書』には、「少ク(わかく)シテ才弁アリ。才ヲ恃ミテ(たのみて)傲逸(ごういつ)ス。
而シテ(じして)気尚剛傲(きしょうごうごう)ニシテ矯ヲ好ム。」とある。
196年、24歳の時に禰衡は許に来てから、名刺を持ったまま誰とも面会しようとしなかった。
ある人が「なぜ陳長文(陳羣)や司馬伯達(司馬朗)のところへあいさつに行かないのか」と尋ねたが、
「卿は豚殺しや酒売り(のような卑しい連中、の意)のところに私を行かせるつもりか」と断った。
また「今の許で、一番ましなのは誰か」と訊かれると、「年長者では孔文挙(孔融)、年少者では
楊徳祖(楊修)がいる」と答えた。さらに「曹公(曹操)・荀令君(荀彧)・趙盪寇(趙融)は皆、世に
抜きん出た人物と思うが?」と畳みかけられると、禰衡は「曹操はそんなに大した人物ではない」と
答えた。さらに「文若(荀彧)は弔問に行くのが、稚長(趙融)は厨房で客を接待するのがお似合いだ」
と言った。つまり、荀彧は見てくれだけだし、趙融は食いしん坊のデブだという意味である。人々は
これを聞いて切歯扼腕した。つまり人々の憎しみを買ったという。しかし、その言動のおかげか、
禰衡は許で一躍名士となった。
孔融の推薦を受けても、禰衡は自分は発狂したと仕官を断ってしまった。しかし曹操は彼の才能を
重んじていた上、孔融のべた褒めを聞かされていたので殺そうとはしなかった。
曹操は禰衡が太鼓を叩くのが上手いと聞き、演奏するように命じると、禰衡は応じた。禰衡は漁陽
參撾という打法を披露し、見事な腕前で人々を感動させた。太鼓打ちには間違えると服を着替える
という規定があり、担当の役人が早速間違いを指摘すると、禰衡はその場で悠々素っ裸になって
着替えて見せ、顔色一つ変えなかった。そこで曹操が「(禰)衡に恥をかかせようとしたのに、
わしがかえって衡に恥をかかされた」と笑ったという逸話もある。
禰衡はその後、孔融の強い勧めで仕方なくもう一度曹操に面会したが、このときに曹操を
怒らせてしまった。以下『後漢書』の話。 禰衡が来ると知った曹操は上機嫌で門番に「客が来たら
すぐ通せ」と伝え、禰衡の来訪を心待ちに待った。ところが禰衡は、粗末な服装に杖を持って
曹操宅の門前まで来ると、どかりと腰を下ろし杖を叩きながら、曹操に対する悪口を並べ立てた。
このため、門番が曹操のところにやってきて「気狂いが一人、門前で不届きな発言をしております。」
と注進した。曹操はそれが禰衡だと分かるや否や本気で腹を立て 「禰衡ハ豎子(じゅし、小僧と
いう意味)ナリ。孤(われ)、コレヲ殺スハ、雀鼠ノ如キナルノミ。顧ミルニ、コノ人モトヨリ虚名アリ。
遠近、孤、コレヲ容ルル能ワズト謂ワン(おもわん)トス。今、送リテ劉表ニ与エイカニスベキカヲ視ン。」
と言った。
つまり曹操は、禰衡には虚名があるから、殺せば度量のない人間と思われるだろうと考え、荊州の
劉表の元へ体よく追い出したのである。後に孔融・楊修を殺した曹操も、この時ばかりは自らの手で
殺すのを躊躇ったのである。
送別の宴では「禰衡はさんざん無礼な真似をしたから、(あいさつのために)やって来ても起きずに
寝たふりをしてやろう」と皆で示し合わせた。禰衡はやって来るといきなり泣き出した。他の者から、
なぜ泣くのかと聞かれると「座しているのは棺桶、伏しているのは屍だ。棺桶と屍の間を通るのだから、
どうして悲しまずにいられようか」と、狸寝入りを皮肉って見せた。
劉表の元では文才を発揮し、また劉表に対しては下手に出た。しかし、その配下に対しては傲慢な
態度をとったうえ、酷評を行なったため、劉表配下の面々からは恨まれた。このため、讒言により
劉表の不興を買って遠ざけられた。また、魚豢が劉表からかつて聞いた話として、劉表が孫策への
手紙を書いて禰衡に見せたところ「これを孫策の部下たちに読ませるつもりですか、張子布(張昭)
にでも見せるのですか」といい、一笑に付したという。
後に、劉表の家臣黄祖の子黄射と友人になり、黄射の仲介で黄祖と出会った。黄祖は禰衡を
はじめ高く評価したが、次第に禰衡が傲慢な態度をとるようになったため、遂に堪忍袋の緒が
切れた。そのため部下に禰衡の処刑を命じ、その部下も禰衡を恨んでいたので、早速殺してしまった。
禰衡は死の直前まで黄祖を罵り続けた。黄祖は禰衡を殺したことを後に悔いたという。 彼の死後、
黄射は彼の遺体を鸚鵡洲という地(現湖北省武漢市)に埋葬した。
皮肉屋の彼。果たして生産的な行いをすることは有ったのだろうか。陳琳のように檄文を書いた
というような記録は無い。彼を推挙した孔融もなかなかの減らず口だったが、朝廷の礼式などの
知識が役立ったとあるが、彼にはそのような”功績”が見当たらない。現代でも「この人何の
功績が有っていつも偉そうな口をきくのだろう」と不思議に思う人物がいるが、彼もそんな類の
人物のように思える。
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