黄崇・・・節度を守った名臣の子 [三国志]
父は蜀の名臣だった黄権。その父は、呉との交戦で退路を断たれて呉に降伏するのを潔し
とせず、第三国の魏に帰順して重用され活躍した人物。
蜀では黄権が魏に降った際に、その家族を処刑すべきという意見があったが、もともと
敗戦の原因は、黄権の進言を聞かなかった自分にあると自責の念の劉備は、黄権を咎めず、
その家族を処罰しなかった。黄権もまた、魏で劉備が黄権の家族を殺したというデマを
聞かされても、劉備とは堅い君臣関係で結ばれており、そのようなことは無いと信じ
なかった。
黄崇はそのまま蜀に出仕し、後に尚書郎へ任じられた。
263年冬、魏の鄧艾が陰平の間道を越え蜀領深く侵攻して来たとき、迎撃軍を率いた諸葛瞻に
従って涪県まで至った。諸葛瞻が軍を進めようとしなかったため、黄崇は諸葛瞻に対し
「速やかに進軍して要害を占拠し、敵を平地に進入させないようにするべき」と何度も進言
したが、聞き入れられなかった。黄崇は涙を流したという。
鄧艾が進軍してくると、諸葛瞻は綿竹まで退却した。黄崇は諸葛瞻と共に綿竹を守って戦い、
兵を鼓舞して奮戦したが、力及ばず戦死した。
彼の父は進言が容れられず魏に降り、そこで力を発揮して人生を全うした。
その息子が魏に降らず、奮戦して節度を守り命を落とした。親子そろって自分の
意見を採用されなかったが、節度を守った生き方をしたことになる。そして、悲しい
最期を迎えた黄崇に、より深い同情をするのは私だけではないだろう。
とせず、第三国の魏に帰順して重用され活躍した人物。
蜀では黄権が魏に降った際に、その家族を処刑すべきという意見があったが、もともと
敗戦の原因は、黄権の進言を聞かなかった自分にあると自責の念の劉備は、黄権を咎めず、
その家族を処罰しなかった。黄権もまた、魏で劉備が黄権の家族を殺したというデマを
聞かされても、劉備とは堅い君臣関係で結ばれており、そのようなことは無いと信じ
なかった。
黄崇はそのまま蜀に出仕し、後に尚書郎へ任じられた。
263年冬、魏の鄧艾が陰平の間道を越え蜀領深く侵攻して来たとき、迎撃軍を率いた諸葛瞻に
従って涪県まで至った。諸葛瞻が軍を進めようとしなかったため、黄崇は諸葛瞻に対し
「速やかに進軍して要害を占拠し、敵を平地に進入させないようにするべき」と何度も進言
したが、聞き入れられなかった。黄崇は涙を流したという。
鄧艾が進軍してくると、諸葛瞻は綿竹まで退却した。黄崇は諸葛瞻と共に綿竹を守って戦い、
兵を鼓舞して奮戦したが、力及ばず戦死した。
彼の父は進言が容れられず魏に降り、そこで力を発揮して人生を全うした。
その息子が魏に降らず、奮戦して節度を守り命を落とした。親子そろって自分の
意見を採用されなかったが、節度を守った生き方をしたことになる。そして、悲しい
最期を迎えた黄崇に、より深い同情をするのは私だけではないだろう。
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