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費詩・・・正論を貫いた硬骨の人 [三国志]

中国後漢末期から三国時代にかけての政治家。字は公挙。益州犍為郡南安県の人。
劉璋に仕えて綿竹県令を務めていたが、劉備が攻めて来ると率先して降伏し、その家臣となった。
劉備が益州を平定すると、督軍従事に任じられる。その後、牂牁太守となり、さらに中央
へ戻って益州前部司馬に任命された。
劉備が漢中王となると、費詩は関羽の下に派遣されて前将軍への任命を告げた。ところが、
関羽は黄忠が後将軍に任命されたと聞き、「拙者があのような老いぼれと同格か」と怒った。
費詩が「そもそも王者が任用するものは一人ではありません。かつて、高祖は古参の蕭何・
曹参を差し置いて新参の韓信を最高位に就けましたが、彼らがそれを恨んだと聞いた事が
ありません。この度、黄忠殿は一時の功績によって出世しましたが、漢王(劉備)の
君侯(関羽)に対する心中の評価が、どうして黄忠殿と同じでありましょうか。
君侯と漢王は一心同体と言うべき間柄ですのに、位の上下などに拘っているのはいかがなものかと存じます」と説いたため、関羽は大きく感じ入って誤りを悟り将軍位を受けた。

建安25年(220年)、劉備が皇帝に擁立される段になると、費詩は上疏し「殿下は曹操父子が
主上(献帝)を脅迫して位を簒奪したため、万里の僻地に身を寄せ士人民衆を糾合し、賊を
討伐しようとしております。今、大敵に勝利を得ないまま、まず自ら即位されるとなると、
おそらくは人々の心に疑惑が生じましょう。昔、高祖は先に秦を破った者が王になるとの盟約を
項羽と交わし、咸陽を落として子嬰を捕らえながら、なお王位を譲ろうとしたのです。ましてや、
殿下は益州からお出にもならないうちに即位しようとなさっております。愚かなる臣(わたくし)は、殿下のために全く賛成できません」と反対したため、劉備の不興を買って永昌従事に左遷された。しかし、費詩の才幹は蜀漢において貴重であったようで、建興3年(225年)の諸葛亮の南征において随従を認められた。

その後、諸葛亮は、魏に寝返った孟達を内応させようと手紙を送ろうとした。費詩は、孟達は小人物であり、手紙を出す価値などないと諌めた。諸葛亮はかまわず手紙を送り、何度か手紙をやりとりすると孟達は叛意を明らかにしたが、結局魏の討伐軍に敗れ殺害された。諸葛亮は孟達の誠意を疑ったため援軍を出さなかった。

諸葛亮の死後、蔣琬が執政を開始した時期にも費詩は存命であり、諫義大夫に任命されている。

私は費詩を勇気ある硬骨の人だと思う。劉備の逆鱗に触れて左遷された後にも自分の判断で正しいと
思ったことを最高権力者の諸葛亮に堂々と直言する。諸葛亮が彼を処分しなかったのは
恐らくその意見の正当性を認めたからだろう。
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