三国志と今の中国 [なんちゃって理論]
かなりの暴論。
諸葛亮の天下三分の計は「一定の安定を保つための三国鼎立」も重要な要素の一つだった。
それを今の中国にあてはめるとどうだろう。
今の巨大な中国を一つの政府で管理するのは困難なのではないか。いくら独裁体制を敷いても
政治の無理というものを感じる。いっそのこと3つぐらいに国を分けてはどうか?という暴論(笑)。
諸葛亮の天下三分の計は「一定の安定を保つための三国鼎立」も重要な要素の一つだった。
それを今の中国にあてはめるとどうだろう。
今の巨大な中国を一つの政府で管理するのは困難なのではないか。いくら独裁体制を敷いても
政治の無理というものを感じる。いっそのこと3つぐらいに国を分けてはどうか?という暴論(笑)。
三日坊主防止策 [なんちゃって理論]
それは…。
途絶えた翌日すぐに復活すること。
これが重要だと思う。
何日連続するかよりも「さぼる日」防止が重要。
途絶えた翌日すぐに復活すること。
これが重要だと思う。
何日連続するかよりも「さぼる日」防止が重要。
自分のブログを検索 [自虐]
時々昔書いたブログ記事を同じような内容を書きそうになる(-_-;)。
そのような疑念がわいたときはキーワードで自分のブログ検索をする。
予想通り過去にすでに書いていたことに気づくこともある(苦笑)。
自分のブログを検索。これは決して無駄なことではない。備忘録として機能することがある。
昔思いつきその後忘れてしまっていたアイデアを思い出すきっかけにもなる。
そう考えるとブログはちょっとしたメモ帳代わりにもなるのだと再発見した次第。
そのような疑念がわいたときはキーワードで自分のブログ検索をする。
予想通り過去にすでに書いていたことに気づくこともある(苦笑)。
自分のブログを検索。これは決して無駄なことではない。備忘録として機能することがある。
昔思いつきその後忘れてしまっていたアイデアを思い出すきっかけにもなる。
そう考えるとブログはちょっとしたメモ帳代わりにもなるのだと再発見した次第。
最終的には諸葛亮を認めていた関羽 [三国志]
演義でも正史でも関羽は最初は諸葛亮を認めていなかった。
古参の自分たちを差し置いて諸葛亮と親密にする劉備に不満を漏らしている。
関羽は諸葛亮の手柄を実際に見るようになってから次第にその真価を認めていくようになったのだろう。
新参の馬超の評判に嫉妬した関羽は諸葛亮に「馬超と腕試しをしたい」と手紙を出している。
この逸話はその時点で関羽が諸葛亮に対してかなり打ち解けているのだなと私は感じている。
諸葛亮は「馬超は確かに優秀だが髭殿(関羽のこと)の絶倫の武勇にはかないません」と返している。
関羽はその手紙を大いに喜び客人に見せてご満悦だったという。
最終的に関羽は諸葛亮に対して親密なものを感じていたのではないか。
士大夫に厳しいと評される関羽だが諸葛亮は例外だったのではないかと私は思う。
古参の自分たちを差し置いて諸葛亮と親密にする劉備に不満を漏らしている。
関羽は諸葛亮の手柄を実際に見るようになってから次第にその真価を認めていくようになったのだろう。
新参の馬超の評判に嫉妬した関羽は諸葛亮に「馬超と腕試しをしたい」と手紙を出している。
この逸話はその時点で関羽が諸葛亮に対してかなり打ち解けているのだなと私は感じている。
諸葛亮は「馬超は確かに優秀だが髭殿(関羽のこと)の絶倫の武勇にはかないません」と返している。
関羽はその手紙を大いに喜び客人に見せてご満悦だったという。
最終的に関羽は諸葛亮に対して親密なものを感じていたのではないか。
士大夫に厳しいと評される関羽だが諸葛亮は例外だったのではないかと私は思う。
普段一言多いのに肝心なときに説明不足の人 [毒舌]
このような人は結構多い。
論理的に物事を話そうとしない人にありがち。
おそらく何が言いたいかを考えずに話してしまうのだろう。
話す前に一呼吸おいて「伝えたいことは何か」を明らかにして、整理してから話をしたいものだ。
論理的に物事を話そうとしない人にありがち。
おそらく何が言いたいかを考えずに話してしまうのだろう。
話す前に一呼吸おいて「伝えたいことは何か」を明らかにして、整理してから話をしたいものだ。
劉馥…曹操配下の名臣でありながら演義での扱いが酷い
劉馥は戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄・秦翊を説き伏せ、軍勢を率いて共に曹操に帰順した。曹操は大いに喜び、劉馥を司徒掾とした。
建安5年(200年)、曹操が置いた揚州刺史の厳象が、孫策が置いた廬江太守の李術に殺害される事件が起きた。更に廬江で袁術残党の梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の軍勢を集め、江・淮の間で郡県を破壊した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥なら東南の事を任せられるとし、厳象後任の揚州刺史として派遣した[。劉馥は単身で空城の合肥に乗り込んで政庁を設置し、雷緒らを懐柔して帰服させた。
数年のうちに恩恵と教化が大いに行なわれ、民衆は劉馥の政治を慕い、流民が江山を越えてくるほどで、帰順者は万単位にのぼった。更に学校を立て、屯田・灌漑事業を推進し、官吏も民衆も蓄えを得た。
彼は素晴らしい政治家だった。それなのに演義は208年に死んだという事実にだけ目をむけたのか
酷い扱いをしている。
赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害されてしまうのだ。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。
油断している曹操の負けフラグのような場面だ。劉馥がひどい扱いであるのは208年という赤壁の年に
死んだことと、劉姓でありながら曹操に味方した彼を演義の作者は気に入らなかったのだろうか。
建安5年(200年)、曹操が置いた揚州刺史の厳象が、孫策が置いた廬江太守の李術に殺害される事件が起きた。更に廬江で袁術残党の梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の軍勢を集め、江・淮の間で郡県を破壊した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥なら東南の事を任せられるとし、厳象後任の揚州刺史として派遣した[。劉馥は単身で空城の合肥に乗り込んで政庁を設置し、雷緒らを懐柔して帰服させた。
数年のうちに恩恵と教化が大いに行なわれ、民衆は劉馥の政治を慕い、流民が江山を越えてくるほどで、帰順者は万単位にのぼった。更に学校を立て、屯田・灌漑事業を推進し、官吏も民衆も蓄えを得た。
彼は素晴らしい政治家だった。それなのに演義は208年に死んだという事実にだけ目をむけたのか
酷い扱いをしている。
赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害されてしまうのだ。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。
油断している曹操の負けフラグのような場面だ。劉馥がひどい扱いであるのは208年という赤壁の年に
死んだことと、劉姓でありながら曹操に味方した彼を演義の作者は気に入らなかったのだろうか。
Amazonで掘り出し物のVAIO購入 [独り言]
古い人間の私にとってはVAIOのノートパソコンは今でも宝物に見えます(笑)。
アマゾンでなんと中古ながら2万円で購入できる商品を発見!
レビューなども参考にして購入を決断。家に届きました。
不具合は見当たらず気に入っています。
掘り出し物でした。
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不具合は見当たらず気に入っています。
掘り出し物でした。
忘れて言い恩、忘れてはいけない恩 [独り言]
これは読んだ本に書かれていたこと。
他人に自分がかけた恩を忘れろ。
他人から受けた恩は忘れるな。
肝に銘じておこう。
他人に自分がかけた恩を忘れろ。
他人から受けた恩は忘れるな。
肝に銘じておこう。
質素は悪いことか? [なんちゃって理論]
今は違うかもしれないが昔は校風の説明に「質実剛健」を謡う学校が多かった。
質素が尊ばれたからだろう。
質素と言うと「ケチ」「貧乏くさい」のごまかしに使う言葉だと思っていた頃が有った。
今は少し違う。分不相応に無駄遣いをするマネを嫌う戒めの言葉として重んじるべき言葉だと
思っているのが今の私の心境だ。
質素が尊ばれたからだろう。
質素と言うと「ケチ」「貧乏くさい」のごまかしに使う言葉だと思っていた頃が有った。
今は少し違う。分不相応に無駄遣いをするマネを嫌う戒めの言葉として重んじるべき言葉だと
思っているのが今の私の心境だ。