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張既・・・西方の名統治家 [三国志]

張既は容姿と動作が優れ、文章が上手だった(『魏略』)。
郡の功曹である游殷は、幼少の張既を評価し方官の器だと評した。家に招いて賓客として待遇し、
宴席が終わると子の游楚の将来を頼んだという(『三輔決録注』)。
16歳で郡の小役人になった。功曹の徐英に自ら30回ほど鞭打たれた事もあったという(『魏略』)。
後に郡の高官を歴任し、孝廉に推挙されたが出仕しなかった。後に、後漢の司空となった曹操に
より司空府に招かれたが、行かない内に茂才となり、新豊の県令に任命された。その治績は
三輔第一であったという。
袁尚は曹操の侵攻に黎陽で抵抗する一方で、郭援と高幹それに匈奴を使って平陽を攻撃させ、
さらに関中の将軍達に使者を送り味方に取り込もうとした。張既は、曹操より司隷校尉として
派遣されていた鍾繇の命令で、関中の有力者の馬騰らの説得に当たった。馬騰は説得に応じ、
子の馬超に1万ほどの兵士を率いさせ、曹操への援軍とした。鍾繇はその兵力を用いて郭援を
斬り、高幹と匈奴を降伏させる事ができた。
208年、袁氏を滅ぼした曹操は荊州の征討を考えたが、関中に割拠する馬騰の動静が
気がかりであった。張既は曹操により馬騰への使者として派遣され、馬騰に対し軍勢を解散させ
帰郷すべしとする曹操の命令を伝えた。しかし、馬騰が帰郷をなかなか遂行しなかったため、
張既は変事が起きることを心配して、諸県に兵糧を蓄えさせる一方、郡太守達に郊外まで出迎えに
行かせた。馬騰は子の馬超に軍勢を預けて已む無く東に向かい、朝廷に帰順した。曹操は
上奏して馬騰を衛尉とし、馬超を将軍とした。
その後、馬超や関中の豪族が曹操に対して反乱を起こすと、曹操に従い華陰において馬超を
討伐し(潼関の戦い)、西方に進んで関右を平定した。その功績により京兆尹に任じられた。
張既は流民を集めて落ち着かせて、県や邑を復興した。
後漢の藩国として魏国が成立すると尚書となり、間もなく外に出て故郷でもある雍州刺史と
なった。張魯討伐では別に郡を率いて氐族を討伐し、麦を収穫して兵糧とした。張魯が降伏すると、
漢中の数万戸を移住させて、長安や三輔の人口を補うよう曹操に進言した。
その後、曹洪と共に下弁に向かい、劉備の部下呉蘭を撃退した。夏侯淵に従って宋建討伐を
した時は、別軍を率いて臨洮や狄道を攻撃して功績を挙げた。
以前、曹操が移民により河北の人口を補った事があったため、隴西・天水・南安の3郡は
動揺していた。張既は3郡出身の官吏や将校に暇を与え、住家を修理させて水碓を支給した。
このため民心は安定した。
曹操は漢中からの撤兵を考えたが、劉備が武都の氐族を味方につけて、関中に圧力を
かけてくる事を心配して、張既にどうすれば良いか質問した。張既は「氐族を北方に移住させ、
劉備から避けさせれば良いでしょう」と答えた。曹操はこれに従い張既に命じて、武都の5万人の
氐族の部落を扶風・天水に住まわせた。
曹丕(文帝)が王位に就き、涼州が再び設置されると、安定太守の雛岐を刺史に当てたが、
4郡の有力者達はそれに従おうとせず、任命された郡太守を追放したり捕虜にしたりした。
張既は蘇則に協力し、功績を立てさせた。都郷侯に封じられた。
張既は雍州・涼州を十数年もの間よく治め、その統治の評判は良かった。
以前の上司であった徐英とは仲良くする事はできなかったが、張既は以前の恨みを棄てて
付き合いを持とうと努めたため、高貴な身分となった張既に謙らなかった徐英と共に、その態度を
讃えられたという(『魏略』)。
三国志演義では、わずかに名前が登場するのみの人物だが、正史ではその治績を多大に
伝えている。かなりの人物だったようだ。
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