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普段一言多いのに肝心なときに説明不足の人 [毒舌]

このような人は結構多い。
論理的に物事を話そうとしない人にありがち。
おそらく何が言いたいかを考えずに話してしまうのだろう。
話す前に一呼吸おいて「伝えたいことは何か」を明らかにして、整理してから話をしたいものだ。
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劉馥…曹操配下の名臣でありながら演義での扱いが酷い

劉馥は戦乱を避け揚州に避難していたが、建安年間の初めに、袁術の部将である戚寄・秦翊を説き伏せ、軍勢を率いて共に曹操に帰順した。曹操は大いに喜び、劉馥を司徒掾とした。

建安5年(200年)、曹操が置いた揚州刺史の厳象が、孫策が置いた廬江太守の李術に殺害される事件が起きた。更に廬江で袁術残党の梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の軍勢を集め、江・淮の間で郡県を破壊した。曹操は袁紹と対峙していたため、自ら討伐に向かえなかったが、劉馥なら東南の事を任せられるとし、厳象後任の揚州刺史として派遣した[。劉馥は単身で空城の合肥に乗り込んで政庁を設置し、雷緒らを懐柔して帰服させた。

数年のうちに恩恵と教化が大いに行なわれ、民衆は劉馥の政治を慕い、流民が江山を越えてくるほどで、帰順者は万単位にのぼった。更に学校を立て、屯田・灌漑事業を推進し、官吏も民衆も蓄えを得た。
彼は素晴らしい政治家だった。それなのに演義は208年に死んだという事実にだけ目をむけたのか
酷い扱いをしている。
赤壁の戦いに従軍した際に、曹操の詩を不吉と批判したため、酔っていた曹操の不興を買って殺害されてしまうのだ。酔いから覚めた曹操は、自らの行為を泣きながら後悔し、三公の礼をもって手厚く葬るよう、子の劉熙に劉馥の遺体を引き渡している。
油断している曹操の負けフラグのような場面だ。劉馥がひどい扱いであるのは208年という赤壁の年に
死んだことと、劉姓でありながら曹操に味方した彼を演義の作者は気に入らなかったのだろうか。
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今日の一言その5308 [今日の一言]

集中力
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