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去り際と言葉で印象が悪くない劉璋 [三国志]

益州の牧で劉備に領土を奪われた劉璋。
彼は優柔不断、惰弱なダメな君主として語られることが多い。
多分に劉備の評価を下げないために泥をかぶらされている感が有る。
彼は劉備に領土を侵攻された際部下に「城に閉じこもり、畑をつぶし井戸に毒を入れれば、兵糧が
乏しく現地調達に頼るしかない劉備軍は撤退する」」という進言に
「民を犠牲にして城を守るなど聞いたことは無い。私はそのようなマネをしない。」と退けた。
そして、血みどろの戦闘を避けて潔く降伏している。
彼は英雄としての覇気が足りなかったかもしれない。だが、善言を守り、民のことを考えたい意見を
述べた点については良い人間であると評価できそうだ。
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三国志と現代の中国・台湾・韓国 [三国志]

勢力国力は三国の中でずば抜けており法体制もそれなりに整っていたが、民の生活は決して良いと
言えなかった魏。
その魏と小国ながら対立。政治はしっかりとしていて漢を継ぐものとしての正統性をよりどころと
した蜀。
実質魏の属国。無道さの目立つ孫権をトップとしていた呉。
現代になぞらえると・・・。
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蜀と現代の台湾 [三国志]

蜀にシンパシーを感じるように、最近の台湾にシンパシーを感じる。
両者共通しているのは、敵対勢力が自勢力よりはるかに強大であること。
そんな中しっかりと独立していること。
政治そのものは蜀は魏よりも、台湾は中国よりもしっかりしているように見える。

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袁紹は単なる優柔不断で無能な君子だろうか? [三国志]

私はそうは思わない。
敵対している立場の郭嘉が「袁紹は人民、蛮人に恩を施していたから、袁紹の息子たちが生きていら
れるのです」と発言し[ている。その人徳が死後も息子を守っているものであることを示す。
荀攸も「袁紹は寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握していました」と発言している。
袁紹の死を民百姓が嘆き悲しんだ記録もあり、仁政を執り行った事が分かる。
歴史とは勝者によって事実を歪められるものである。
袁紹についても、実際の人物評価を矮小化しているのではないかと私は疑っている。
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張翼・・・「地味な張良の子孫」 [三国志]

中国後漢末期から三国時代の武将。益州犍為郡武陽県の人。字は伯恭。前漢の張良の子孫。
素晴らしい血筋だが、演義ではその説明が無い。
高祖父は司空の張晧。曾祖父は広陵太守の張綱。祖父と父の名は不詳。子は張微。孫は張存。
『三国志』蜀志に伝がある。

劉備が益州を平定し(入蜀)、益州牧を兼任したときに書佐として取り立てられた。その後、孝廉に推挙され、江陽県長・涪陵県令・梓潼太守・広漢太守・蜀郡太守と地方官を歴任した。

この間、沔陽県長であった頃、劉備の漢中攻め(定軍山の戦い)に参加し、趙雲の指揮下で曹操軍を大いに撃退したという(『三国志』蜀志「趙雲伝」の注に引く『趙雲別伝』)。

231年、庲降都督・綏南中郎将として南中方面を鎮守した。

しかし、法に厳格であったために異民族の反発を買い、233年、異民族の劉冑が反乱すると(『三国志』蜀志「後主伝」)、職務に耐えないと見做されて中央に召喚された。張翼は後任の馬忠が赴任するまで前線に留まり、兵糧の準備など軍備を充実させた。このため馬忠はそれに頼り、異民族の反乱を平定できた。諸葛亮はこの話を聞き、張翼に信頼を寄せた。

諸葛亮が武功に進軍したとき、前軍都督となり、扶風太守を兼務した。

諸葛亮の死後、前領軍となり、劉冑討伐の功績が評価され、関内侯に封じられた。

238年には尚書となった。さらに、督建威・仮節に昇進し、都亭侯・征西大将軍に昇格した。

255年、姜維が北伐を計画すると、これに強く反対したが容れられず、張翼も鎮南大将軍として北伐に従軍した。姜維は洮水において王経軍を大破した。しかし、張翼はこれ以上の戦闘継続に反対し、戦果に傷がつかない内に撤退すべきだと述べた。これに対し姜維は腹を立てたが、張翼はなおも反対を続けた。結局、姜維は狄道城に籠った王経を包囲したものの、破ることはできなかった。これ以来、姜維は張翼のことを内心不快に思うようになったが、北伐の際は常に従軍を命じた。このため、張翼も仕方なくそれに従った。

259年、左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼務した。

263年夏、魏の蜀侵攻が開始された。張翼は廖化・董厥と共に鍾会軍を迎撃するため陽安関へ向かったが(『三国志』蜀志「後主伝」及び「姜維伝」)、蔣舒の裏切りにより陽安関は陥落してしまった。このため陰平から敗走してきた姜維と共に、剣閣へ籠って鍾会軍を防いだ。しかし、剣閣を迂回した鄧艾軍により成都が降伏したため(『三国志』蜀志「後主伝」)、張翼は姜維と共に鍾会へ降伏し、随行して成都に戻った。

翌年正月、姜維と鍾会は鄧艾を罪に落とした上で、魏将を皆殺しにしてクーデターを起こそうとした。しかし、胡烈ら魏将の反撃に遭って討たれ、張翼もこれに巻き込まれて殺害された。

演義における彼の扱いは軽い。その事績が諸葛亮死後であり、駆け足展開の中では省略された感が
ある。そして、偉大なる張良の子孫と称賛するにはやや力量不足だったのかもしれない。
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諸葛亮の北伐はすべてが敗北ではない。 [三国志]

厳密にいえば、第三次北伐は「わずかながら」領土を得ている。「領土拡大」が「勝利」と
言えるならば、第三次北伐は勝利になる。
諸葛亮は建興7年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。
雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に
武都・陰平の2郡を平定した。この功績により、再び丞相の地位に復帰した。
蜀でも「成功」と認めたからこそ、諸葛亮は復位できたと言えそうだ。
これが勝利と言われないのは、「局地戦の勝利」を褒めたたえることはかえって。諸葛亮の威光を
貶める行為とみなされかねないからだろうか。
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三国志演義で優遇されている孫権 [三国志]

三国志演義では正史の悪評を採用しなかったり、別人の功績を差し替えたりして優遇している
人物が何人か存在する。孫権もその一人。
彼は功臣陸遜と不和になり、言いがかりをつけて憤死させている。
呉で自分より尊敬されている張昭を疎み、みにくい喧嘩をしている。
晩年、佞臣の意見を採用して心ある家臣を冷遇するなどかなり晩節をけがしている。
演義はその辺を華麗にスルー。
何故、孫権は優遇されたのか?
個人的な見解。
単純に悪役曹操一族を際立たせたかったから、孫権の悪辣さをぼかした。
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諸葛亮は予算と軍事行動を考えて行動していたのだろうか? [三国志]

諸葛亮の北伐は都合5回。

228年春の第一次北伐は、最初のうちこそ上手く行っていたものの、諸葛亮の指示に背いた先鋒の馬謖が張郃に撃破され、その後、蜀軍は撤退する(街亭の戦い)。

228年冬の第二次北伐は、攻めあぐねているうちに食糧不足により撤退した。なお、撤退時に追撃してきた王双を討ち取っている(陳倉の戦い)。

229年春の第三次北伐は、陳式が武都・陰平を攻め、諸葛亮が魏の郭淮を防ぎ、武都・陰平の両郡を平定した。

231年春の2月から始まった第四次北伐は、祁山を包囲し、援軍に来た張郃・司馬懿を撃退するが、同年夏6月に食料不足により撤退する。なお、撤退時に追撃してきた張郃を討ち取っている。

234年春2月から始まった第五次北伐は屯田を行い長期戦に持ち込むが、同年秋8月に諸葛亮は陣中で病没した(五丈原の戦い)。

最初の北伐と最後の5回目自らの死をもって終了する以外は、何かしらの判断に基づいての
軍事行動完了のように思える。

彼は軍人であるように政治家であり統治者だった。細かな職務まで行っていた諸葛亮は
国家予算も把握していたことだろう。
予算から判断してどのくらいの軍事行動が許容されるかを把握しながら北伐を行っていたのでは
ないかと考える。

赤字財政を無視して突っ走る政治家に見習ってもらいたいものだ。
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多様性を認める曹操の美点 [三国志]

曹操は感情の激しい人物であった。そして徹底的な法治主義。独裁者。
そんな曹操の美点の一つが多様性を認めている点。
文人、武人いずれも評価する。
異民族を差別したりしない。
多様な方面の才能ある人物を認める。
現代の中国の政治家を曹操と比較すると大きく欠けている点は
多様性を認める心の欠如ではないだろうか。
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馬岱 [三国志]

五虎将軍亡き後の「三国志演義」蜀の数少ない猛将。
諸葛亮に「蜀随一の忠臣」と称えられ、魏延の叛乱を抑えた殊勲者でもある。
しかしながら正史では独立した伝が無く、「馬超伝」の”おまけ”扱い。
「馬超の従兄」であること、魏延を打ち取った功績、そして何よりも北伐時の蜀の
人材不足を補うために「物語性」を加え、「演義馬岱」は美化されているように思える。
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諸葛亮は今の中国を認めるだろうか? [三国志]

認めないだろう。
曹操の法統治国家ぶりと今の中国。
覇道を優先とする国家運営の共通点。
諸葛亮は法を尊重したが、法で民を苦しめるのではなく、民の生活を守るために法を重んじた。
魏と対決の構えを示したように、諸葛亮の思想は今の中国を否定すると私は考える。
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今の中国と三国志時代の魏 [三国志]

今の中国を三国志の時代にたとえると魏に似ているように思える。
相対的な人口・国力の優位。
民衆が幸せとは思えないが、一応収まっている政治ぶり。
ただし、魏と違って政権が簡単には変わらなそうところは大きく異なる。
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劉封を養子にした劉備の”人選ミス” [三国志]

劉備は概ね「人を見る目がある」称される。
だが例外もある。
劉封なるものを養子にしたことだ。
彼は劉禅誕生の前に養子になっている。益州攻略に武功を立てている。
だが、人物に問題があり、同僚の孟達と不和になり、おまけに関羽の救援を無視している。
諸葛亮は劉封の豪勇は劉備亡き後の蜀にとって禍根となることを危惧した。
そして劉備に除くように進言した。
仮に彼が劉備の養子にならなければ、誅殺されることは無かったのではないだろうか?
彼が器量の小さい人物であったことは、自決する際に「孟達の進言に従い魏に寝返れば
良かった」と発言したことや、歴史家陳寿の扱い、すなわち「終わりを良くしなかった人物」の
列伝の一人に彼を置いたことからもうかがい知れる。
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諸葛亮が現代の中国に生きていたら・・・。 [三国志]

意味の無いIFかもしれないが考えた。
彼は隠遁するのではないだろうか。
俗世間に交わることを嫌い、清廉に生きようと、ひっそりと生きることを選びそうな
気がする。
今の中国に劉備に相当する人がいないように思える。
天下三分の計のような戦略を立てる隙間も無いように思える。
現政権に加担することを諸葛亮が好むとは思えない。
敵対勢力となっても勝ち目がないことを計算するだろう。
あえて言えば、良心や良識を持つ人を勇気づけるような精神活動を政府に目をつけられないように
展開するような行動を起こすことだろうか。
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行動したからこその諸葛亮の評価 [三国志]

諸葛亮の評価は行動したからこそだと考える、
室内で「天下三分の計」を論じるだけでは、中国の情勢を動かすことは出来ず、
歴史に名を残すことは無かっただろう。
北伐をせずに国内政治の充実に専念したら・・・。
これは判断に迷った。人命の犠牲を抑制し蜀に平和をもたらしたかもしれない。
だが、軍事行動を起こさない蜀を魏が侵攻しない保証はない。
「蜀に魏を併呑する意思あり」
それを天下に知らしめるための北伐。それも血をなるべく流さない行動により遂行する。
そこまで考えると諸葛亮寄りの考えになるが、成果として「蜀防衛のための北伐」には
なりえたのだから、暴論ではないと思う。
一貫して言えるのは、諸葛亮が賞賛されるのは、大きな計画を立てて具体的に行動したから
こどでなないかということ。
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政治家としての劉備に関する勝手な考察 [三国志]

人望の人劉備。
彼の政治家ぶりはどうだったのだろう?
諸葛亮が配下になる以前の劉備は、課税が緩やかで賦役を軽くした
民にとっては有り難い施政ぶりだったと想像する。
故に民衆の支持は得たが、軍備の強化は出来なかったのではないか。

そのような劉備の民の人気は高まっても、野望を持つ人物にとっては配下になるのは
少し不安だったのではないだろうか。

法順守を重んじ、租税をしっかりと行う諸葛亮を得るまで劉備が勢力を拡大できなかったのは、
彼の性格ゆえの政治ぶりにあったのではないかと想像する。
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三国志時代の疫病はコロナ? [三国志]

三国志時代はやたらと著名人が疫病で死んでいる。
何の脈絡も無い憶測だが、コロナではなかったのかと疑う。

多分武漢のせいだ・・・。
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費観・・・費イの一族 [三国志]

蜀漢に仕えた。字は賓伯。荊州江夏郡鄳県の人。妻は劉璋の娘。また、劉璋の母は、費観の族姑である。
陳寿が『三国志』を編纂した頃には、その事跡に関する史料が失われていたため、同蜀書において列伝されていないが、楊戯が記した『季漢輔臣賛』に記録がある。

はじめ劉璋に仕えていた。 建安18年(213年)、費観は李厳の軍に参加して綿竹で劉備軍を防いだが、最終的に李厳と共に劉備に降伏した。益州を平定した劉備は、費観を裨将軍に任命し、後に巴郡太守兼江州都督に昇進させた。建興元年(223年)、都亭侯に封じられ、振威将軍(『季漢輔臣賛』は揚威将軍。どちらが正しいか不明)を加えられた。

費観は人付き合いが上手く、20歳以上年長でしかも自尊心の強い李厳を相手にしても、同年輩のように交流したと言う。没年は不詳だが、37歳で死去した。

『季漢輔臣賛』は、費観の人物像について「才幹があり、その文武は人々を感動させた。官僚として任務をよく理解し、物事を論じること心強く聡明であった。利殖を図りつつもその財は施し、義に厚く秩序立った振舞いを行なった」と述べている。

小説『三国志演義』では、劉璋の婿ではなく、劉璋の妻の弟(つまり義弟)として登場する。李厳を推挙した上で、史実どおり綿竹を守る。李厳が劉備軍に捕えられると、その李厳の説得を受けて綿竹を開城した。以後、登場しない。


何となく人付き合いの上手い費イと似たものを感じる。
このような人物が夭折したのは蜀にとって残念なことだ。

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三国志の外交 [三国志]

三国志の外交と言う名の交渉の成功パターンは大体決まっている。

媚びを売らない。
自分の主張を受けいれない場合の相手の不利を説く。
自分の意見を採用する利点をさりげなく納得させる。

これが現代でどれだけ応用できるかどうかは怪しいが、交渉の失敗パターンも
勉強になる。

代替案を用意しない。
ただの威嚇。

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蒋エンの優秀さがよくわからない [三国志]

諸葛亮の後継者蒋エン。
特に三国志演義を読んでいると彼の活躍などが具体的に語られず、いきなり諸葛亮の死の間際に
スポットライトが当たっている感がある。

これは正史三国志を読んでもそれほど変わらない。

諸葛亮死後、蜀で動揺する人間が多い中、蒋エンは常と変わらない様子でそれを見て人々の
動揺が収まったとある。

政務処理能力に特別優れたわけではなく、人柄が変と思わせるエピソードの紹介。

変に自分のカラーを出さず、権力をかさに着ず、荊州の名士としてもそれなりに知名度が
あった人物。

それでも、彼をけなすつもりはないが、優秀さが今一つよくわからない。

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三国志のコロナ [三国志]

三国志の時代にコロナウイルスは無かったかもしれないが、三国志を読んでいると
現代のコロナウイルスに匹敵するかのような威力の疫病の話がよく出てくる。

三国志の時代。戦争の多さ故に戦死者ももちろん多かったが、名を歴史に残すような人物の
疫病による死、そして、名も無き民衆も含めての疫病の流行の記事が多い。


赤壁の戦いの頃の疫病流行。

赤壁の戦いが有ったと思われる場所と武漢の地理的類似点。

何か共通しているように私には思える。
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三国志の善政とは何か? [三国志]

劉備や諸葛亮が善政を行い民が喜んだ。
三国志演義によくある表現。
三国志において善政とは何だろう?

緩やかな課税。無闇に民衆に労役を課さない。無茶な徴兵を行わない。
それだけならば、劉表や劉璋にも当てはまりそうなので少し違う気がする。

董卓や袁術といった暴君、暗君の領主は重税を課し、法を疎かにしていた。
民が安心して暮らせるのは、生活出来る程度の税金、普通に仕事を出来る環境、犯罪が少ない
社会。簡単に言えばこんなところではないか。

曹操も諸葛亮も法を重んじた点は共通している。だが前者は民を恐れさせ、後者は民に畏れられた。

三国志において善政とは民が役人に怯えることなく、犯罪少なく、相応の生活水準を保てる
一定の平和を実感できる政治ではないだろうか。
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諸葛亮が三顧の礼を受けた「勝手な憶測」 [三国志]

やや強引な考察(笑)。

”演出”や”政治的配慮”で三顧の礼のメリットを考えた。
ズバリ!それまで出仕していなかった諸葛亮の”特別な人間”という価値観を人々に与える
インパクトを狙ったのではないだろうか。

それなりに名声が有った諸葛亮とは言え、普通に仕官して劉備に仕えてしまったのでは、
劉備陣営の中に入ってから”少し優秀な新入社員”が入った程度にしか映らず、なかなか
発言権を発揮するなどの特権は得られなかっただろう。

劉備の特別な計らいで諸葛亮は迎えられた。そのような人物だから若くして
仕官してすぐに発言権を持った劉備の参謀となる。それにはそれ相応の”ドラマ”
が必要。

諸葛亮が三顧の礼を待った理由の一つとしてそのような深慮遠謀が有ったのではないかと
本気で考える。
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楊洪・・・実務能力高く、ブレない気骨の人 [三国志]

最初は劉璋に仕え、諸郡の官吏を歴任した。劉備の益州平定後、犍為太守となった李厳から功曹に任命される。李厳が郡役所を移転したいとの意向を示すと、これに反対している。
後に李厳の推薦により、蜀郡従事に任命された。劉備の命令で人員の徴発を命じられた時は、
諸葛亮に相談を持ちかけられ、その事務処理能力を高く評価された。
また、蜀郡太守代行となり、まもなく正式な蜀郡太守となった。後に益州治中従事に転任した。

夷陵の戦いでの敗戦後、劉備は白帝城において重病となり、諸葛亮も見舞いのため成都を留守にしていた。この報を聞いた黄元が謀反を起こすと、留守を守る太子劉禅に黄元討伐を進言し、適切な助言を行ない、陳曶・鄭綽に黄元を捕らえさせた。

劉禅即位後、223年に関内侯に封じられ、蜀郡太守・忠節将軍となった。のちに、蜀郡太守のままで越騎校尉になった。

227年、諸葛亮から留府長史に張裔を任用したいとの相談を受けたが、張裔の能力を高く評価するもその性格に難があると、これに異を唱え向朗を推薦した。二人はかつては友人であったが、楊洪が子の張郁が微罪で罰を受けた際に特段の温情をかけて赦すことはなかったため、彼の恨みを買っていた。そのため時の人は楊洪の推薦は張裔が出世することを望まなかったのではないか、自分こそが長史になろうとしているのではないかなどと疑った。後に張裔が岑述と揉めごとを起し、諸葛亮に叱責されると時の人は楊洪が私心を持って張裔の任官を反対したわけではなかったことを悟ったという。

228年、在任中に亡くなった。

彼の伝はその人の実務能力の高さを伝えている。そして、優れた判断力とブレない姿勢は
極めて立派で正しいものでもあることを。

彼は諸葛亮生存中に亡くなっているが、恐らく諸葛亮は彼の死を嘆いたことだろう。

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教科書通りではあった馬謖 [三国志]

泣いて斬られた馬謖。
だが、彼の失敗は”一応は”教科書の教えを守ったものだった。

1.山越えは、谷沿いに進み、視界が開けた高みに陣取る。
2.将、軍に在りては君命をも受けざるところにあり。

この2つのセオリーを孔明の指示より優先した馬謖。

だが、残念だったのは、孔明の教えを最優先すべき局面だったこと。

中途半端な知識が彼の首を絞めた。実践派の劉備は馬謖の短所を見抜いており、
実践と理論のバランスが理論に偏重している馬謖の危うさを見抜いていたのかもしれない。
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王甫・・・演義と正史の異なる死亡 [三国志]

王 甫は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての政治家。字は国山。益州広漢郡郪県の人。
陳寿が記した三国志では、楊戯伝の「季漢輔臣賛」に記載されている。

風貌が凛々しく、人物評価や政治手腕に優れていた。はじめは劉璋に益州の書佐
(書記の事務を担当する者)として仕えた。後に劉備が益州を奪うと、綿竹県令となり、
次いで荊州議曹従事に異動となった。章武2年(222年)、劉備の呉討伐に従ったが、軍が
南郡秭帰県で敗北した際に戦死した(夷陵の戦い)。

彼の演義での死は正史と異なる。
小説『三国志演義』では、随軍司馬として関羽の補佐をつとめる。荊州を狙う孫権軍や、
荊州守備を担当する配下の糜芳・傅士仁・潘濬に警戒して、趙累を起用するよう進言する。
しかし関羽は特に心配せず、これらの言を採用しない一方で、有事に備えるために烽火台を
作るよう王甫に命令している。その後、呂蒙により烽火台は押さえられ、荊州は陥落。
関羽は、王甫の諫言を聞かなかったことを悔やむことになる。

王甫は麦城から逃れ出ようとする関羽に対して、間道は伏兵の危険があるため、街道を
進むべきと諌める。しかし、またしても関羽はこれを聞こうとしない。仕方なく王甫は、
周倉と共に麦城の留守を守ることになる。しかし、王甫の案じたとおり関羽は伏兵に捕われて、
殺されてしまう。孫権軍により掲げられた関羽・関平父子の首級を見た王甫は、その後を
追って櫓から身を投げ、自殺することになっている。

何故、彼の死は演義では異なる演出になったのだろう?
それは演義の”関羽優遇”の一端ではないか。つまり、関羽の敗北は彼の責任ではなく、
部下の不手際であることを前面に出す脚色を施したのではないか。
聡明な王甫に関羽の部下の人物の不安を語らせる。

関羽の神格化のために周倉という架空の人物を後を追ってしなせている。王甫の場合は、
弔い合戦で戦死した彼を前倒しで死なせることで、関羽がいかに部下に心酔されていたかを
描きたかったではないだろうか。

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永安 [三国志]

何故か新年号が「永安」に決まったという夢を見た。

劉備最期の地。
縁起はよろしくないが、「とこしえに安かれ」は案外、使われやすそうな気もする。

まず間違いなく外れるとは思うが。
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諸葛亮が死を惜しんだ人物 [三国志]

「法正が生きていてくれたら」

劉備が関羽の報復戦である夷陵の戦いに敗れた際、諸葛亮は上記の言葉で嘆いた。

初めてこの言葉を見たとき「法正はそこまで評価されていたのか」と驚いた。
この発言は演義では見えない。何せ法正はいつ死んだのかも物語で触れられていない。

演義では「関羽や張飛のような人物が亡くなり、蜀に人物はいなくなった」という発言が
あるが、正史には見えない。

諸葛亮ほど権力を持った人物ともなると、なかなか特定の人物を褒めたりできなくなるのでは
ないか。あいつを褒めて自分は褒めないのか。そんな風にヘソを曲げられて、働きぶりが
鈍ることは損失である。

そのように考えると、この発言にはますます重みを感じる。
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領土は奪えばいいものではない。 [三国志]

三国志の話。
やっとの思いで領土を奪っても、住民の反発を招き、税収を得られず、徴兵できなければ
無駄に領土を広げることになる。更に言えば、敵の反撃であっさりと奪還されれば徒労に
なってしまう。

魏が強大になれたのは、圧政に近い状態ながらも住民の大きな反発を招かず、
国力を順調に増強できたからだろう。華北を制することができたのは、盤石な国力を
得たことと言える。それこそ、三国の中で抜きんでた存在になれたゆえんではないか。

これをビジネスに”無理やり”たとえると(笑)、大安売りで新規顧客を得ればいいものではない。
しっかりとロイヤルカスタマー化しなければ、会社にとっての財産にならないという
ことか。
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諸葛亮はいつ天下三分の計を考えたのだろう? [三国志]

諸葛亮の代名詞とも言える「天下三分の計」彼はいつこの戦略を考えたのだろう?

早くとも官渡の戦い後の曹操が華北を制した後。
そして、孫権が江東を掌握した後であると断定できる。

そして・・・。

劉備が劉表の賓客になった後。曹操が北上している頃、ちょうど本拠を留守にしている頃
くらいではないかと私は思う。

天下の趨勢が決しつつあるものの、曹操の天下になるのは反対だ。
誰かを擁立して天下統一を防ぐには・・・。

三顧の礼により、劉備に招かれた諸葛亮だが、天下三分の計を構想する段階で
”身近な英雄”劉備を主と仰ぐことを含めて着想したのではないか。

そう考えて出た結論。諸葛亮は、劉備の一度目か二度目の訪問を受けた段階で、
天下三分の計を考え出した。
少し無理気味な推測だろうか?
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